【書評その2・運命の人はいない?結婚/愛は自立】幸せになる勇気のまとめ-私から私たちへ
「幸せになる勇気」の書評の続き(書評その2)です。
【前回の書評その1】
今回の記事は、「幸せになる勇気」の中から、われわれが他者・社会と生きていく上で避けて通ることのできない、「人生(仕事・交友・愛)のタスク」や、「運命の人」の有無、「真の自立」等について紹介しています。
普通より文量が多くなっていますので、時間がない方は気になる見出しだけ見られることをお勧めします。
【書評その1】は「教育+α(自立)」、【書評その2】は「人生のタスク(特に愛のタスクが中心)と真の自立」を中心にまとめています。
書いていない部分
【書いてない部分】
そして、地球で生きていくためには働く必要がある。しかも一人で働くのではなく、仲間たちと共に。
われわれは働き、協力し、貢献すべきである。
労働それ自体を「善」と規定していない。
道徳きな善悪にかかわらず、われわれは働かざるを得ないし、分業せざるを得ない。他者と関係を築かざるを得ない。
人間は一人では生きていけない。
孤独に耐えられないとか、話し相手が欲しいと、そういう以前に生存のレベルで生きていけない。
そして他者と分業するためにはその人のことを信じなければならない。(信用の関係)
われわれは「交友」において、他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じることを学ぶ=共同体感覚の定義
「交友の関係を通じて「人間知」を学び、共同体感を掘り起こす。
交友の関係においてこそ、他者への貢献を試される。(p.179)
交友に踏み出さない人は共同体に居場所を見出すことも叶わない。
子供たちが最初に「交友」を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所。それは学校。
そのためには、自分のことを信じて欲しいから、先に(あなたのことを)信じる。あなたが私を信じようと信じまいと私はあなたを信じる。信じ続ける。それが無条件の意味。
われわれは仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られないのです。
目の前のことだけ考えていればいいのか。
いいも悪いも、そこから始めるしかない。
他者への貢献が人生の指針であり導きの星。(p.191)
与えてもらうことばかり
他者に何かを当てることができるのは基本的に裕福な立場にある人。あなたは与えようともせず、「与えてもらうこと」ばかりを求めている。
さながら物乞いのように。金銭的に困窮しているのではなく、心が困窮している。聖書 求めよ。さらば与えられん
アドラー与えよ。さらば与えられん。(p.218-219)
自分の生きるこの世界はどうのような場所であり、そこにはどのような人々が暮らし、自分はどのような人間なのか。こういった「人生への態度」を自らの意思で選択するわけです。(p.248)
自分で選んだはずの教育者という道さえ、もしかすると「他者から認められること」を目的とした「他者の望むわたし」の人生かもしれない。
人生のタスクについて
すべての喜びもまた、対人関係の喜びである
アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩みである」としていますが、悩むのが嫌だからといって「他者との繋がりを切ってしまえば良いのか?」といえば、そうではありません。
人間の喜びもまた、対人関係から生まれるものであり、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されています。
人生の充足感や幸福感を味わうためには、他者・社会との関係を切り離すことはできません。
だからこそ、ひとりの個人が社会で生きていくにあたっては、「人生のタスク」(仕事・交友・愛のタスク)という「直面せざるを得ない課題」を立ち向かっていかなければならない訳です。
仕事のタスクについて
仕事は「信用」、交友は「信頼」の関係。
・「信頼」とは他者を信じるにあたって一切の条件をつけないこと。
例え信じるに足るだけの根拠がなかろうと信じる。担保のことなど考えず、無条件に信じる。それが信頼。その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。物質的な価値ではなく人間的な価値に注目する。また、「その人を信じる自分を信じる」という自己信頼あっての他者信頼となるもの。
仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係です。
「仕事」とは何らかの利害、或いは外的要因(例えば取引先、同じ会社など)が絡んだ条件付きの関係であり、仕事から離れてまでその関係を保とうとは思わないものです。しかし、利害や外的要因もあり、個人的な好き嫌いを問わず、関係を結ばざるを得ないものです。
一方、「交友」には「この人と交友しなければならない理由が一つもない」ものを言います。利害もなければ、外的要因によって強制される関係でもありません。ただ「この人が好きだ」という内発的な動機によって結ばれていく関係のことを言います。
なぜ「仕事」が人生のタスクとなるのか?
アドラー心理学によれば、「仕事」とは、地球という厳しい自然環境を生きていくための「生産手段」と位置付け、仕事をかなり「生存」に直結した課題と捉えています。
ご存知のように、自然界における人間は「身体的劣等性」を抱えた存在です。
我々人間より、パワーやスピード、スタミナのある動物は沢山存在しています。
だから人間は生きていくために、集団生活を選び、集団で狩りをしたり、農耕をしたりして、食糧や身の安全を確保して、子孫を残してきました。
ここから導かれる答えは、我々人間はただ群れを作ったのではなく、「分業」という画期的な働き方を手に入れたということです。
「分業」とは人類がその「身体的劣等性」を補償するために、獲得した類稀なる生存戦略と言えます。
むしろ「分業」するために社会を形成したと言っても構いません。
人生のタスクにおける「仕事」のタスクとは、単なる「労働」のタスクではなく、他者との繋がりを前提とした「分業のタスク」であるということです。
人間は生存するため、生き抜くために働きます。そして、人間は働くため、分業するために社会を形成しています。
生きることと働くこと、そして社会を築くことは不可分一体のものというのがアドラー心理学の考えです。
分業の根底にあるのは「利己心」だが、結果として「利他」に繋がる
さて、我々人間が生きていくために生み出した生存戦略である「分業」の根底にあるのは「利己心」だと言います。
「他者貢献」「幸福とは貢献感」であるとするアドラー心理学からすると一見「利己心」というのは矛盾するように感じます。
「利己心」とは、他人より自分の利益を優先して顧慮する心。 自分の利害関係を物事を図ろうとするあり方。(引用:Webio辞書)
その説明として、弓矢を作る生産者と狩人の話を挙げています。
・立派な弓矢を製造できるが、狩りは下手という生産者
・一方で、狩りは上手だけど、自分で弓矢を作るのは下手という狩人
生産者が苦手な狩りをしたり、狩人が出来の悪い弓矢を作るよりも、お互いに得意分野に精を出した方が効率的です。
つまり、ただ一緒に働くだけではなく、生産者は良い弓矢を製造し、狩人は(良い弓矢を使って)狩りに勤しみ、獲物を山分けした方が良い訳です。
しかも、「誰ひとりとして自分を犠牲にしておらず、純粋な利己心の組み合わせが分業を成立させている」という点が重要になります。
分業社会においては「利己」を極めると、結果としての「利他」につながります。
従って、他者貢献までの流れは次のようになります。
まずは仕事の関係に踏み出すことで、他者や社会と利害で結ばれます。そうすれば利己心を追求した先に他者貢献がある訳です。
職業に貴賎はない。重要なのは「その仕事にどのような態度で取り組むか」である
「営業の方が稼いでいるから偉い」などと、会社でも度々言われることがありますが、「職業に貴賎はない」とするのがアドラー心理学です。
その根拠は「すべての仕事は『共同体の誰かがやらねばならないこと』であり、われわれはそれを分担しているだけ」という考え方から来ています。
しかも、同心理学では、原則、分業の関係においては個々人の「能力」が重要視されるとしながらも、人間の価値は「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではなく、その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まると述べており、「重要な仕事をしているから偉い」といった考えを否定しています。
会社の採用の場面などで能力を重視される部分はあるとしながらも、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については能力だけで判断されるものではなく、むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が重要になってくると述べています。
そして、「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度であるとと述べている訳です。
会社で一緒に仕事をしている仲間でも、何かをお願いされた時など多少対応に差がありませんか。おそらく意識的にしろ無意識にしろ、こうした感情によって差が生まれいるのだと思います。
分業とは好悪を超えて「他者を信用すること」からはじまる。
引用:幸せになる勇気(p.195)より
われわれは分業しないと生きていけない。
他者と協力しないと生きていけない。
それは「他者を信用しないと生きていけない」ということでもある。
それが分業の関係であり、「仕事の関係」である。
交友のタスクについて
教育が「交友」のタスクになる理由
【書評・その1】の中でも述べましたが、教育の目標は「自立」であり、教育者のなすべき仕事は「自立に向けた援助」です。そしてその入り口は「尊敬」です。
「尊敬」とは、「ありのままのその人を見ること」であり、「その人がその人であることに価値を置くこと」「その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうこと」といったことを意味します。
「ありのままのその人を尊重する」とは、その人のことを無条件で受け入れ、信じることです。そこには「信用」ではなく「信頼」が必要となります。
つまり、「尊敬」とは「信頼」と同義だということです。
当然、尊敬していない相手のことを信頼することはできません。他者のことを信頼できるか否かは、他者のことを尊敬できるか否かにかかっています。
教育の話に戻せば、「信用」をべースにした「仕事」の関係では、生徒たちを尊敬することはできないのです。「尊敬」には「信頼」をベースとした「交友」の関係が求められるからです。
相手をただ信じる。それには自分を信じることも必要
アドラー心理学では、どんな相手であっても尊敬を寄せ「信じる」ことはできると述べています。なぜなら「信じること」は、環境や対象に左右されるものではなく、あなたの決心一つによるものだからです。
そもそも「信じること」は何でもかんでも鵜呑みにすることではありません。
その人の思想、信条、言論、そうしたものに疑いの目を向けたり、自分なりに考えることは何も問題ありません。
最終的になすべきは、例えその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じることです。本当の信頼とはどこまでも能動的な働きかけなのです。
われわれは「自分のことを信じてくれる人」の言葉しか信じようとしません。「意見の正しさ」で相手を判断する訳ではないのです。
これはみなさんにも、経験があると思います。
ちなみに「意見の正しさ」を信じる基準としないのには理由があります。
それはあらゆる争いは「私の正義」のぶつかり合いだからです。
そして、「正義」とは時代や環境、立場によっていかようにも変化するもので、唯一の正義、唯一の答えなどどこにも存在しないという考えから来ています。
話が少しそれましたが、相手のことを信じるための例として、新約聖書から次のような言葉を挙げています。
「汝の隣人を汝自らの如くに愛せよ」
この言葉のポイントは、ただ隣人を愛するだけではなく、自分自身を愛するのと同じように愛せよと言っているところです。
つまり、自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。ひいては、自分を信じることができなければ、他者を信じることもできないという論法になる訳です。
従って、「他人のことなど信じられない」と嘆く人は、そもそも「自分のことを信じ切れていない」ということを物語っています。
また、自己中心的な人は、自分のことが好きだから自分ばかり見ているのではありません。実際は全くの逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安に晒されているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。
仕事を通じて所属感を獲得することはできない!?
自らの価値を仕事を通じて、或いは仕事で成果を収めることによって証明しようとする人がいますが、仕事で認められることは社会から認められることではありません。
仕事によって認められるのは、あなたの「機能」であって、「あなた」自身ではありません。なぜなら、あなたの仕事でより優れた機能の持ち主が現れれば、周囲はそちらに靡きます。
従って、本当の意味での所属感は、他者に信頼を寄せて、交友の関係に踏み出すことしかありません。しかし、自分が誰かを信じたところで、その他者が私を信頼し、交友の関係に踏み込んでくれるかどうかは分かりません(そこは課題の分離である)。
そもそも、相手の考えていることがすべて「わかる」ことなどありえません。
これは肉親であっても同じです。
しかしアドラー心理学でいうところの「信頼」とは、われわれ人間はわかり合えない存在とわかった上で、他者を信じることを求めているのです。
加えて、アドラーは「誰かがはじめなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」という言葉を残しています。
つまり、生徒たちに自分を信じて欲しいと思うのならば、まずは自分が生徒たちを信じなければならない。
自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が最初の一歩を踏み出すことが必要です。それによって相手が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、結果がどうなるかなど、今考えることではありません。あなたにできることは一番身近な人々に信頼を寄せること、それだけです。
われわれは心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与えていかなければなりません。
引用:「幸せになる勇気」(p.218-219)
他者からの尊敬を待つのではなく、自らが尊敬を寄せ、信頼を寄せなければなりません。
心の貧しい人間になってはいけない。
・・・中略・・・
与えるからこそ、与えられる。
与えてもらうことを待ってはならない。
心の物乞いになってはならない。
愛のタスクについて
多くの人が考える「愛は愛ではない」
もしあなたが「愛」とは運命的なもの、本能的なもの(自分ではコントロールできない等)、或いは愛とは「落ちるもの」といったように思っているのであれば、それは「愛ではない」とするのがアドラー心理学です。
同心理学では、「人間にとっての愛は、運命によって定められたものでもなければ、自然発生的なものではない。愛とは落ちるものではなく、築き上げるもの」と述べています。
つまり、「愛」を語るにあたって、人間には関知しえない「運命」や「本能」といった言葉に頼っている時点で、愛のタスクという人生の課題である愛のタスクに向き合えていないことになります。何故なら、意思や努力の枠外にあるものとして直視しないでいる訳ですから。
落ちるだけの愛なら誰にでもできます。
引用:「幸せになる勇気」(p.227)より
そんなものは人生のタスクと呼ぶに値しない。
意思の力によって、なにもないところから築き上げるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。
恋に落ちることは「物欲」と同じ
アドラー心理学では「恋に落ちること」は「物欲に取り憑かれるようなもの」と述べています。さすが「常識へのアンチテーゼを唱える心理学」なだけありますね。
あんなに欲しがっていたはずのカメラや車を半年としないうちに飽きてしまうのは「撮影したかったり、運転したかった」ではなく、それらを所有し、征服したかっただけであり、「落ちる愛」というのも、この所有欲や征服欲と何ら変わりがなく、本質的には物欲と同じだとしています。
アドラーの語る愛とは…他者を愛する技術
世の中にはどうしたら相手から好かれるかといった、「他者から愛される技術」を説くものが多いですが、アドラーは一貫して「能動的な愛の技術、『他者を愛する技術』を説いたそうです。
確かに「他者から愛されることは難しい」けれども、「他者を愛すること」はその何倍も難しい課題とされます。
多くの人が「愛される技術」を求める一方で、アドラーはその逆の他者を愛する技術を説いている訳ですから、同心理学が「常識へのアンチテーゼ」と呼ばれるのも頷けます。
「分業・交友」の関係と「愛」との関係の違い
分業の関係(仕事のタスク)の根底に流れていたのは「わたしの幸せ」であり、利己心です。そして、「わたしの幸せ」を突き詰めていくと、結果として誰かの幸せに繋がっていき、分業の関係が成立します。
謂わば、健全なギブアンドテイクが成り立っていると言えます。
一方、交友の関係(交友のタスク)を成立させるのは「あなたの幸せ」です。
相手に対して、担保や見返りを求めることなく、無条件の信頼を寄せていく訳ですから、ここにギブ・アンド・テイクの発想はありません。
相手をひたすら信じ、ひたすら与える利他的な態度によって、交友の関係が生まれていきます。
では、愛の関係とは、何を追求した結果、成立するのかというと、それは愛とは、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げることです。
わたしやあなたよりも上位のものとして、「わたしたち」を掲げています。
「わたしの幸せ」を優先させず、「あなたの幸せ」だけに満足しない。
愛を「二人で成し遂げる課題」と定義する以上、「わたしたちの二人が幸せ」でなければ意味がないのです。
「わたしの幸せ」を追求することによって、分業の関係を築き、
引用:「幸せになる勇気」(p.238-239)
「あなたの幸せ」を追求することによって交友の関係を築いていく。
そして「わたしたちの幸せ」を築きあげることで愛の関係を築いていく。
愛を知ることで人生の主語を「わたし」から「わたしたち」に変える
本書の中では、アドラーの語る「愛」ほど厳しく困難で、勇気を試される課題はないとされています。同時に愛のタスクがとても重要なものであることも意味しています。
それは、われわれは生まれてからずっと「わたし」の目線で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き「わたし」の幸せを求めて人生を歩むことになります。
これはすべての人がそうであり、何らおかしなことではありません。
しかし、本当の愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。
利己心でもなければ、利他心でもなく、全く新しい指針のもとに生きることになります。
つまり、愛とは、利己と利他の両方を退け人生の主語が変わるほど大きな意味を持つということです。
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。
引用:「幸せになる勇気」(p.240-241)より
愛によって、ふたりは、幸福なる生を成し遂げる。
それではなぜ、愛は幸福につながるのか?
それは、愛が「わたし」からの解放だからです。
弱さゆえの「自己中心性」
赤ちゃんの頃を想像して頂くと分かる通り、私たち人間は、この世に生まれた時から「世界の中心」に君臨しています。
周囲の誰もが「わたし」を気にかけ、昼夜を問わず怪し、食事を与え、排泄の世話さえしてくれる。「わたし」が笑えば世界が笑い、「わたし」が泣けば世界が動く。家庭という王国に君臨する独裁者のような状態と言えます。
大人たちを支配する圧倒的な力、その力の源泉は「弱さ」にあります。
「弱さ」とは対人関係において恐ろしく強力な武器になります。
また、子供時代に限らず、多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として他者をコントロールしようと目論んでいます。実際にそうした様子を皆さんも経験したことがあるはずです。
そうした大人たちは「甘やかされた子ども」と一緒です。
つまり、赤ちゃんや子供のみならず、大人になってもまだ自らの個人的な利益にしか焦点を合わせられない人たちが大勢いる訳です。
弱さゆえに身に着ける「愛されるためのライフスタイル」
子供時代の我々は、親に依存しながら生きるしかなく、わたしの命は親が握っていて、親に捨てられたら死んでしまうという状況下にいます。
子供とは言え、知性がありますからある時親から「愛されてこそ、生きていくことができる」ということに気づきます。
そうした時期に、子どもたちは自らのライフスタイルを選択することになるため、自らのライフスタイルを選択する時には、その目標は「いかにすれば愛されるか」にならざるを得ない訳です。
われわれは皆、命に直結した生存戦略として、「愛されるためのライフスタイル」を選択することになるのです。
そうして子供たちは、自らの置かれた環境を考え、両親の性格・性向を見極め、兄弟がいればその位置関係を測り、それぞれの性格を考慮し、どんな「わたし」であれば愛されるのかを考えた上で自らのライフスタイルを選択します。
そこには、「いい子」のみならず、「悪い子」のライフスタイルも存在します。
悪い子だと愛されるためには不利になりそうですが、これも一つの生存戦略です。
泣き、怒り、叫んで反抗する子どもは、感情をコントロール出来ないのではありません。むしろ、十分すぎるほど感情をコントロールした結果、それらの行動をとっています。そこまでしなければ親の愛と注目を得られな、ひいては自分の命が危うくなると直感しているのです。
例えば、学校での生徒たちの問題行動も自己中心性に基づく一種の愛されるためのライフスタイルと言えます。
「愛されるためのライフスタイル」とはいかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです。
「自立とは自己中心性からの脱却」であり、その手段は愛である
赤子は甘えやわがままで泣いているわけではなく、生きるために「世界の中心」に君臨せざるを得ません。
とは言え、すべての人間は過剰なほどの自己中心性から出発することになります。そうでなければ生きていけないからです。しかし、いつまでも世界の中心に君臨することはできません。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければなりません。
アドラー心理学では、共同体感覚を「social interest」と呼び、「社会への関心」「他者への関心」と読んでいます。
われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければなりません。
それは「わたし」から脱却することです。「甘やかされた子ども時代のライフスタイル」から脱却しなければならないのです。
愛は「わたし」だった人生の主語を「わたしたち」に変えます。
われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れるのです。そして、たった二人から始まった「わたしたち」はやがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくのです。
自立とは「自己中心性からの脱却」
引用:「幸せになる勇気」(p.244)より
自立とは経済上の問題でも、就労上の問題絵もなく、人生への態度、ライフスタイルの問題です。
われわれは他者を愛することによってようやく大人になります。
そして、愛は自立であり、大人になること。だからこそ愛は困難なのです。
もし誰のことも愛していないのであれば、それは自立できていないということです。
(補足:愛→自立→共同体感覚)
本当の愛とは担保のないもの
人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識の中で愛することを恐れているのである。
引用:「幸せになる勇気」(p.257-258)/エーリッヒ・フロムの言葉より
「愛する」とはなんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分を委ねることである
相手の好意をなんとなく察知した瞬間、その人のことが気になりだし、やがて好きになっていく、といった経験を誰もが一度は経験したことがあると思います。
これは自分の勘違いだったとしても、なんとなく「愛される保証」が確保できた状態であり、「あの人は、きっと自分のことが好きなのだ」「自分の好意を拒絶したりはしないはずだ」という担保のようなものを感じているという訳です。そして、われわれはこの担保を頼りにより深く愛していくというのが一般的な恋愛であり愛だと思います。
一方、フロムの語る「愛すること」はそのような担保を一切設けていません。
相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしにただ愛し、愛に身を投げることを主張しています。愛に担保を求めてはならないということです。
われわれ人間が、愛に担保を求める理由は、「傷つきたくない、惨めな思いをしたくない」ではなく、「傷つくに違いない」と思い、「惨めな思いをするに違いない」と半ば確信しているからです。なぜなら、こんな自分を愛してくれる人などいるはずがないのだからと心の底で思っているからです。
この確信の背景には、「まだ自分のことを愛せていない。自分のことを尊敬できていないし、信頼できていない」という思いがあるからです。
だから愛の関係において「傷つくに違いない」「惨めな思いをするに違いない」と決めつけてしまう。こんな自分を愛してくれる人などいるはずがないのだと。
これは自らの劣等感を課題が解決しない言い訳に使っている劣等コンプレックスの発想です。
・自分には良いところ、優れたところがない(と思っている)。
→だから、誰も愛してくれない(と考えている)。誰とも愛の関係(担保のない愛)を築くことができない(と考えている)。
ここでも鍵となる考え方は「課題の分離」です。
「愛すること」はあなたの課題であって、その愛に相手がどう応えるかというのは、他者の課題です。他者の課題である以上、あなたにコントロールできるものではありません。
できることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛することです。
運命の人はいない
自分を愛することができない人が行き着く先は、「(自身の劣等感を払拭できない以上)こんな自分を受け入れ、愛してくれる人と出会う」という「運命の出会い」「運命の人」という考えです。
しかし、本書ではこの考え方を明確に否定しています。
まず、「運命の出会い・運命の人」という考えの裏には、「あなたがわたしを愛してくれるなら、わたしもあなたのことを愛する」といった部分があり、結局、「この人はわたしを愛してくれるのか?」しか見ていないことになります。
相手のことを見ているようで、自分のことしか見ておらず、そんな態度で待ち構えているあなたを誰が愛してくれるのかと、主張しています。
もう一つは、自分の勇気が足りないのが原因なのに、「運命の出会い・運命の人」という幻想に逃げているだけだからです。
アドラーの考え方はこうです。
出会いがない人と嘆く人も、実は毎日のように誰かと出会っています。
同じ場所に居合わせるといったささやかなで出会いを何かしらの関係に発展させるためには、一定の勇気が必要になります。
そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人がどうするかと言えば、「運命の人」といった幻想に縋り付いてしまう訳です。
目の前に愛すべき他者がいるのに、あれこれ理由を並べて「この人ではない」と退け、「もっと理想的なもっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せている。それ以上の関係に踏み込もうとせず、ありとあらゆる候補者を自らの手で排除する訳です。
つまり、運命の人を求める理由は「すべての候補者を排除するため」と結論付けています。
こうして過大な、ありもしない理想を持ち出すことによって、生きた人間と関わり愛になることを回避する。それが「出会いがない」と嘆く人の正体です。
そうした人は、愛の関係から逃げ、可能性の中に生きているのです。幸せは向こうから訪れるものだと。今はまだ幸せが訪れていないが、運命の人に出会いさえすれば、全てがうまくいくはずだと。
結婚、愛とは「対象」を選ぶことではなく「決断」である
アドラー心理学における結婚とは究極的に言えば「対象」を選ぶことではない。自らの「生き方」を選ぶことで、われわれはいかなる人をも愛することができると述べています。
例えば、誰かとの出会いに運命を感じ、その直感に従って結婚を決意した、という人は多いでしょうが、それはあらかじめ定められた運命だったのではなく、「運命だと信じること」を決意しただけと考える訳です。
だから、出会いの形などどうでも良く、もしそこから本当の愛を築いていく決意を固め、「二人で成し遂げる課題」に立ち向かうのであればいかなる相手との愛もあり得ると結論付けています。
そして、運命とは自らの手で作り上げるものだとしています。
例えば、パートナーと一緒に歩んできた長い年月を振り返ると、「そこに運命的な何か」を感じることがあります。その場合の運命とはあらかじめ定められていたものではなく、そして偶然降ってきたものでもない。
二人の努力で築き上げてきたものと考える訳です。
そうやってアドラー心理学はあらゆる決定論を否定し、運命論を退けます。
われわれに運命の人などいないのだし、その人が現れるのを待ってはいけない。待っていたのでは何も変わらない。
われわれは運命の下僕になってはいけない。
運命の主人であらねばならない。
運命の人を求めるのではなく、運命と言えるだけの関係を築き上げるのですと主張しています。
誰かを愛するということは単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である
引用:「幸せになる勇気」(p.266)エーリッヒ・フロムの言葉より
運命とは「いま」をダンスすることで描かれる軌跡
ではどうやって運命と言えるだけの関係を築き上げるかについて、アドラー心理学では以下のように述べています。
分かりもしない将来のことなど考えず、存在するはずもない運命のことなど考えず、ただひたすら、目の前のパートナーと「いま」をダンスするのです。
愛と結婚は、まさしく二人でおどるダンスのようなもの。
どこへ行くのかなど考えることなく、お互いの手を取り合い、今日というひの幸せを今という瞬間だけを直視して、クルクルと踊り続ける。
あなたたちが長いダンスを躍りきった軌跡のことを人は「運命」と呼ぶのだと。
運命の人を求めるあなたは人生というダンスホールの壁際に立って、ただ踊る人たちを傍観しているようなものです。
「こんな自分と踊ってくれる人などいるはずがない」と決めつけ、心のどこかで「運命の人」が手を差し伸べてくれることを待ちわびている。
これ以上惨めな思いをしないように、自分を嫌いにならないように、歯を食いしばって精一杯自分を守っているのです。
やるべきことはただ一つ。そばにいる人の手を取り、今の自分にできる精一杯をのダンスを踊ってみる。運命はそこから始まるのです。
「愛する勇気」とは「幸せになる勇気」
どうやってたった一人の「この人」との結婚を決意したのか?
本書で哲人(哲学者)はどうして結婚を決意したのかという質問に対して「幸せになりたかったから」と答えています。
「この人を愛したならば、自分はもっと幸せになれる」と考えたそうですが、
これは「わたしの幸せ」を超えた「わたしたちの幸せ」を求める心だったという訳です。
つまり、「愛する勇気」とは「幸せになる勇気」とも言えます。
愛について、エーリッヒ・フロムの言葉を引用して以下のように語っています。
愛とは勇気の行為であり、わずかな勇気しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない。
引用:「幸せになる勇気」(p.271)エーリッヒ・フロムの言葉を改訂より
*原典であるフロムの言葉は「勇気」ではなく「信念」
なぜ、勇気が必要かと言えば、愛の関係に待ち受けるのは楽しい事ばかりではなく、引き受けなければならない責任は大きく、辛いこと、予測し得ぬ苦難もあります。それでもなお、愛することができるか。どんな苦難に襲われようとこの人を愛し、共に歩むのだという決意を持っているか。その思いを約束できるかということが必要になるからだと言います。
そして、責任を回避し「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は束の間の快楽を得ることはあっても、本当の幸せを掴むことはできません。
前述したように、われわれは「他者を愛すること」によってのみ、「自己中心性から解放」されます。
他者を愛することによってのみ、「自立」を成しえます。
そして他者を愛することによってのみ、「共同体感覚に辿り着く」のです。
幸せとは貢献感であり、貢献感を持てれば、幸せが得られるとアドラーは言います。本来、人はただそこにいるだけで誰かに貢献できています。何か特別なことをする必要はない。
問題は、貢献感を得るための方法、もしくは生き方なのです。
もしあなたが貢献感を感じないのは、あなたが「わたし」を主語に生きているからです。愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、変わってきます。そうならば生きている、ただそれだけで貢献しあえるような人類の全てを包括した「わたしたち」を実感するはずです。
愛し、自立し、人生を選べ
引用:「幸せになる勇気」(p.273)より
* 誰かを愛するためには幸せになる勇気が必要
「愛する勇気=幸せになる勇気」
アドラー関連のその他の書評
感想
常識へのアンチテーゼは伊達じゃない
前作「嫌われる勇気」の内容もそうでしたが、今作「幸せになる勇気」を読み終えて感じることは、自分がこれまで漠然とこういうものだと捉えていた教育や仕事、交友、愛、自立といったものの考えがメタ視点とも言える階層から見せられた感じで、驚きと発見の連続でした。
中でも、愛のタスクに関する「運命の人」「好意という担保のある愛」を否定するという考え方などには衝撃を受ける人も多いと思います。
本書の中で、アドラーを知り、アドラーに同意しアドラーを受け入れるだけでは、人生は変わらず、本当に試されるのはなんでもない日々という試練の中で歩み続けることの勇気なのだと述べている通り、アドラー心理学の考え方自体はシンプルであるがゆえに説明されれば「なるほど。確かに」と思いますが、いざ実践するとなると非常に難しい訳です。
しかし、アドラーの思想を実践するにはそれまで生きてきた人生の半分の時間がかかると言われる一方で「人間が変わるのに、タイムリミットはあるか?」と質問を受けたアドラーは、「確かにタイムリミットはある。寿命を迎えるその前日までだ」と答えています。
その回答を信じ、アドラー心理学の全てを実践することは難しくとも、考え方の一部でも自分ができることを日々一生懸命やっていきたいと思います。
未来をつくるのはあなた。
引用:「幸せになる勇気」(p.280)より
未来が見えないこと、それは未来に無限の可能性があるということ。
われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれるのです。
環境が変わり時が経てば付き合う人も変わる。だからこそ最良の別れに向けた不断の努力が必要
昔、クラス替えや進学(ex.小から中、中から高)のたびに仲の良かった友人たちと段々疎遠になっていくのがなんだか悲しいなと子供ながらに思ったことがあります。
疎遠にならないよう、定期的に連絡を取ったり、クラスや学校が違っても遊んだりとその関係を維持しようと努めたこともありましたが、クラスや学校が異なれば当然同じ時間を過ごす時間も減るので段々と疎遠になるものだと思います。
そうした「出会いと別れ」について本書では以下のように書いてあります。
別れるために出会うのです。
すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら最良の別れに向けた普段の努力を傾ける。いつか別れる日がやってきたとき、「この人と出会い、この人と共に過ごした時間は、間違いじゃなかった」と納得できるよう、普段の努力を傾けるのです。
引用:「幸せになる勇気」(p.277-278)より
そしてこれに続く言葉はこうです。
「いま、ここを真剣に生きる」とは、例え、突然、友人や家族たちとの関係が終わってしまうとしても、それを「最良の別れ」と受け入れられることを意味していると。
昔に比べれば、携帯電話やSNSの発達により、「何かあればお互いに連絡が付く」という程度の関係を維持することが可能となりました。
また、SNSなどのフォロワーに代表されるように他者との繋がりを持つことも容易となりました。
しかし、そうした関係から交友や愛に繋がるような踏み込む「勇気」を持って他者と接している人は非常に少ないのではないでしょうか。
ネットで知り合いのみならず、リアルの知り合いも含めて、声をかけられれば寂しいとか、ハブられたら嫌だといった理由で、集まり一緒になってノリよく騒いだりもするけれど、実はお互い本音を見せない薄い関係であるということも多いのではないでしょうか。
アドラーの言葉を借りれば、交友や愛の責任を回避し「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は束の間の快楽を得ることはあっても、本当の幸せを掴むことはできない訳です。
「もちろん、そんなことはない」という意見もあると思いますが、昨今の友人、恋人関係というのは少なからずそうした部分があると感じます。
そんな時代だからこそ「最良の別れ」に向けた不断の努力が大事なのだと思います。
今はコロナ禍にあり、しかも第3波が叫ばれているタイミングなので、中々難しいところもありますが、わたしも「会いたいな」と思った時に面倒がって結局連絡せずに終わることもありますので、今よりもう少しだけ「いまここ」で出会う目の前の人々とダンスをするように最良の別れに向けた不断の努力を怠ることのないように過ごしたいと思います。
とりあえず行動する前に、あまりマイナス思考をしないようにしようと思います。
恋愛しない若者が増えたことは「自立できない、自己中心的」な若者が増えたということ!?
本書「幸せになる勇気」の愛のテーマを読んでいて思ったことが、世間では「恋愛出来ない、或いは恋愛しない若者が増えた」と言われていることです。その他にも日本では未婚率も上昇していると言われています。
こうしたデータに関しては、統計の取り方や用意された回答によっても変わってくると思いますし、婚姻届を出さずに籍を入れない家庭や同性婚といったケースもあるので一概にそうだと言えるものでもないので、とりあえず真偽の程はとり置いておいて、「恋愛出来ない、或いは恋愛しない若者が増えた」という前提で進めていきます。
本書の中で、われわれは「他者を愛すること」によってのみ、「自己中心性から解放」され、他者を愛することによってのみ、「自立」を成しえると述べてあります。そして他者を愛することによってのみ、「共同体感覚に辿り着く」のだと。
であれば、「他者を愛すること」が出来ないのであれば、いつまでも「わたし」を優先した子どものままのライフスタイルを歩むことになり、本当の意味での自立が出来ないことになります。
それは自分の利益を追求し、他者貢献を考えない大人が増えるということを意味します。アドラーの言葉を借りれば、子ども時代に身につけた「自分は世界の中心」だと考える大人が増えたということです。
昔に比べ、大量の情報を入手しやすくなったこともありますが、ニュースや新聞などを見ていると老若男女問わず自分勝手な大人が増えている印象があります。
実際、ウーバーイーツの危険運転や歩きスマホ、煽り運転といった交通ルール一つとっても我が物顔という自己中心性が窺い知れますし、事件・事故の報道を見ててもなんでそんな理由でこんなことを…と思わされることもしばしばです。
皆さんも、テレビやニュースを見ていて多かれ少なかれそうした気持ちになった記憶があるのではないでしょうか。
他者を愛するという課題は「他者から愛される」よりも数倍も難しいと本書では述べられています。
アドラー心理学が確かであれば、それこそ一朝一夕には解決できない問題です。
ですが、愛することは自分の気持ち、決心一つで出来ることであると述べられている以上、他者を思いやり、より良い世の中にするためには、われわれ人間一人一人を信じるしかないのだと思います。
どこまでも人間を信じたアドラー
本書の中で、共同体感覚が生まれた背景を説明している箇所があります。
そこには、アドラーは軍医として第一次世界大戦に参加し、傷ついた兵士を治療し速やかに前線に送り出す役割を負っていたそうです。
結果として第一次世界大戦は欧州全土に甚大な被害をもたらし、数えきれない悲劇を生み出しました。
こうした悲惨な出来事は、心理学者たちにも影響を与えることになるのですが、フロイト(オーストリアの精神科医)はタナトスやデストルドーと呼ばれる「死の欲動」を提唱しました。これは「生命に対する破壊衝動」のようなものです。
一方で、アドラーは、フロイトのように人間は戦争を、殺人や暴力を希求する存在とは考えず、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えた結果、「共同体感覚」を提唱しています。
それは、人間が誰しも持っているはずの他者を仲間だと見なす意識、つまり共同体感覚を育てていけば、争いを防ぐことができる。そしてそれを成し遂げるだけの力があると。
そして、大事なのは世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に信頼を寄せる、目の前の人と仲間になる、そうした日々の小さな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくはずだと。
つまり、アドラーはただひたすらに人間を信じたという訳です。
同じ大戦を経験しながら、フロイトとアドラーの出した答えは真逆とも言えるものでした。しかし、それほど人間を信じるアドラーであれば、同心理学を実践することも可能だったはずだと、得心します。
われわれの場合には、いきなり人類全てを信じることなどできませんが、まずは目の前の相手を信頼するというところからスタートしていかなければなりませんね。