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【書評その1・教育/尊敬は自立への援助!嫌われる勇気続編】幸せになる勇気のまとめと感想

 
書評「幸せになる勇気」の表紙
この記事を書いている人 - WRITER -
HOP CONSULTING
人事・労務コンサルタント(社会保険労務士)、経営コンサルタント(中小企業診断士)。福岡生まれだが熊本育ちのため、性格は典型的な「肥後もっこす」。 「ヒト」と「組織」の問題解決(人材教育・育成や組織変革)を専門とする。 また、商社時代に培った経験から財務・会計にも強く、人事面のみならず財務面からの経営アドバイスも行う。 他にも社会保険労務士、中小企業診断士や行政書士など難関国家資格を含む20個の資格にフルタイムで働きながら1発合格した経験を生かし、資格取得アドバイザーとしても活動中。
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以前紹介したベストセラー作品「嫌われる勇気」(著:岸見一郎・古賀史健)の続編にあたる「幸せになる勇気」【書評その1】です。

【 書評その1とその2の違いについて 】
「幸せになる勇気」の内容は大きく「教育」「人生(仕事・交友・愛)のタスク」「自立」のテーマに分けることができます。
【書評その1】は「教育+α(自立)」、【書評その2】は「人生のタスク(特に愛のタスクが中心)と真の自立」を中心にまとめています。

「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」どっちから読めば良い?違いは?

「嫌われる勇気」が2013年、「幸せになる勇気」が2016年の発刊となっています。たまに「どっちから読めば良いのか?」という質問があるようですが、本の内容や著者のあとがきから見ても、「嫌われる勇気」の続編という位置づけで「幸せになる勇気」は出版されていますので、発刊年順に読むのが無難です。

両者の違いは「地図」か「コンパス」か

両者の違いについても著者のあとがきが参考になります。

「嫌われる勇気」はアドラー心理学の存在を知り、アドラーの思想を概観するためのいわば、「地図」のような一冊でした。

「幸せになる勇気」は、アドラーの思想を実践し、幸福なる生を歩んでいくための「コンパス」となる一冊。前作(嫌われる勇気)で提示した目標に向かって、どのように進んでいけばいいのかを示す、行動指針と言い換えてもいいでしょう。

引用:「幸せになる勇気」あとがき(p.290-291)より

つまり、前作「嫌われる勇気」は、「アドラー心理学とは何か?」を知るための入門書的な位置づけであるのに対し、続編の「幸せになる勇気」は「実際にどのようにすれば良いのか」という実践的な内容やヒントを与えてくれる本になっています。

また、「幸せになる勇気」の中では、前作「嫌われる勇気」に出てきた用語や考え方を復習する場面が多々ありますので、まずは「嫌われる勇気」を読んでアドラー心理学の概要を把握し、「幸せになる勇気」で実践へのヒントを養うという流れが良いと思います。

アドラー心理学は「劇薬」であり学び実践することが「最も困難」なもの

前作の書評の中でも述べた通り、アドラー心理学の教えは「常識へのアンチテーゼ」とも言えるべきものとなっています。

アドラー心理学ほど、誤解が容易で、理解が難しい思想はない。

・・・中略・・・

もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。

引用:「幸せになる勇気」(p.8)より

本書でこのように述べられている通り、アドラー心理学とは理解が難しく、また、実践も非常に困難なものです。それこそ、アドラーの思想を実践するには「それまで生きてきた人生の、半分の時間がかかる」と言われるほどです。

【まとめ】教育について

本書では、「教育、人生(仕事・交友、愛)のタスク、自立」に関する内容がその多くを占めます。

特に「教育」に関しては、前作「嫌われる勇気」でアドラー心理学を学んだ青年が同心理学を教育に活用したいと考え「教師」となり、現場(学校や教室)で実践したものの、上手くいかずに哲人(哲学者)のもとに訪れ同心理学を批判するという内容となっているためです。

そのため、教師という職に限らず、あらゆる意味での「教育者」(ex.部下や後輩を育成する上司や先輩)にとって役立つ内容になっていると思います。

「教育」とは「自立」に向けた援助

「課題の分離」という概念から考えると、学校で子供たちに「あれをしろ、これをしろ」と色々と指導する「教育」は、一見、子供たちの課題への「介入」と受け取ることも可能ですが、アドラー心理学では教育を以下のように定義しています。

教育とは「介入」ではなく、「自立」に向けた援助である

引用:「幸せになる」(p.36)勇気より

世の中には自分以外の他者がいて社会があるからこそ、学ぶべき「知」(例えば交通ルールや日常でのルール)が存在しています。

そして、ここでの「知」とは学問としての知のみならず、人間が人間として幸福に生きるための「知」も含まれています。

例えば、
・共同体の中でどのように生きるべきか。
・他者とどのように関わればいいのか。
・どうすればその共同体に自分の居場所を見出すことができるのか。
・「わたし」を知り、「あなた」を知ること。
・人間の本性を知り、人間としての在り方を理解すること。

こうしたことを同心理学では「人間知」と呼びます。

こうした「人間知」は書物によって得られるものではなく、他者と交わる対人関係の実践から学ぶものということに気づくはずです。
つまり、大勢の他者に囲まれる「学校」はまさしく「教育の場」として大きな意味を持っていることになります。

教育への入口は「尊敬」

さて、自立に向けた教育のための入口として「尊敬」が必要だと述べています。

まずは「あなた(教育者)」が「子供たち」に対して「尊敬の念」を持つことからスタートしなければなりません。
特に大事なのは「あなたが/あなたから」という部分です。

教える側(教師、上司、先輩)が教えられる側(生徒、部下、後輩)に立つ人間のことを敬うという気持ち重要になります。

「尊敬してもらう」「尊敬されたい」ではなく、「(子供だろうと、部下・後輩であろうと)相手を尊敬する」という最初の一歩を「あなた」が踏み出さなければならないということです。

教育者に課せられた役割は、子供たちを尊敬し、尊敬とは何かを示し、尊敬を学んでもらうこと

引用:「幸せになる勇気」(p.58)より

そもそも「尊敬」とは何か?

本書では「尊敬」を以下のような言葉で紹介しています。

尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである

尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである

引用:「幸せになる勇気」(p.43)より

そして、「最上級の尊敬」とは、目の前の「他者」を、変えようとも操作しようともしない。何かの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認めることだと述べられています。

当然ながら、他者から「ありのままの自分」を認められれば、その人は大きな自信や勇気を得ますから、「尊敬」とはいわば「勇気づけ」の原点とも呼べるものです。

一方で、我々が普段口にしている「尊敬」「自分もあの人のようになりたい。憧れのような感情」という意味で使っていることがほとんどだと思います。

しかし、同心理学では、こうした尊敬は「尊敬ではない」と明確に否定しています。このような尊敬は恐怖や従属、信仰であり相手のことを何も見ておらず、権力や権威に怯え虚像を崇めているだけのものだと主張しています。

尊敬のボールは、自らがそれを投げた人にだけ、返ってくるもの。

引用:「幸せになる勇気」(p.48)より

そもそも「尊敬」とは、壁に向かってボールを投げるようなものであり、いくら壁に向かって「尊敬しろ」と言っても意味がなく、自らが(尊敬という名の)ボール投げない限り、返ってくることはありません。
(「課題の分離」という面で見れば、ボールが返ってくる時もあれば、返ってこないこともあります)

自らが尊敬のボールを投げる第一歩を踏み出さなければならないということです。

両者の間に「尊敬」があるからこそ、良好な人間関係が生まれる

尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係無くして言葉を届けることはできません

引用:「幸せになる勇気」(p.41)より

いかなる権力者であっても、強要できないものとして「尊敬」と「愛(【書評その2】で後述予定)」を挙げています。

確かに、どんな権力者(例えば会社の社長や上司)であろうと、自分を「尊敬しろ」とか「愛せよ」と言われても、尊敬できない相手、好きでもない相手に対して本当の「尊敬」や「愛」を向けることは至難の技だと思います。
それこそ、面従腹背の振る舞いになるのがオチです。

尊敬のない組織では、機械や歯車のような「機能」はこなせても、人間としての「仕事」は出来ないでしょう
「組織」の利点は、力を結集させることで個人ではなし得ない大きなことを達成することですが、尊敬のない、つまり良好な関係にない組織では、自己中心的な振る舞いが目立ち足を引っ張り合い、一人一人が本来持つ個人の力すら発揮できていない可能性もあります。

尊敬の第一歩は「他者の関心事に関心を寄せる」こと(同調ではなく共感)

「尊敬」の第一歩は「他者の関心事に関心を寄せること」です。
例え、あなたから見て、それが到底理解し難い遊びや行動であったとしてもです。

そのためには、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」が必要になります。
本書ではそれを「共感」と呼んでいます。

世間一般で考えられている「共感」は、相手の意見に「私も同じ気持ちだ」と同意することだというものですが、これは単なる「同調」に過ぎません。
本当の意味での「共感」とは、同じ種類の心、同じ種類の人生を持っていたらと考えることであり、「他者に寄り添うときの技術だと紹介されています。

「技術」である以上、誰しもが身に付けることが可能だということです。
自分がどう思うのか、ではなく相手の立場に立ち、相手がどう思っているのか、或いは感じているのか、という共感を示すことで、相手を尊敬することに繋がります。

(共感について)
もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?と考える

引用:「幸せになる勇気」(p.54)より

「子供たちのためを思って」は尊敬を欠いた行動

多くの親や教育者たちは、これ(あなたには到底理解しかねる遊びや、子ども向けの愚昧な玩具に夢中になっていたり、時には公序良俗に反するような書物を読んだり、ゲームに耽溺している)に眉をひそめ、もっと「役に立つもの」や「価値のあるもの」を与えようとします。
その行為を諫め、書物や玩具を没収し、自分たちがそこに価値を認めようとしたものだけを与えるわけです。

無論、親たちは「子どものためを思って」そうしているのでしょう。
しかしこれは、いっさいの「尊敬」欠いた、子どもとの距離を遠ざけるだけの行為だと考えねばなりません。子どもたちの自然な関心を否定しているのですから。

引用:「幸せになる勇気」(p.51)より

上記引用部分からも分かる通り、大人や教育者が「子どものためを思って」の振る舞いには尊敬が欠けています。

何故なら「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じる」ではなく、「自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の心で感じようとしている」からです。
あなたにとって「つまらない、無駄、あるいは卑猥、醜悪なもの」と思うものが、子供たちにとってもそう(同じ)であるとは限らないからです。
(そもそも、子供たちはそう思っていない可能性の方が高い)

人間の「問題行動の5段階」

問題行動を起こす人の心理を観察すると、「それがやってはいけないことだと知らなかった」のではなく「(悪いことだと)知っていて問題行動を起こしたり、あとで親や教師に叱られることを分かった上でやっている」ということが分かります。アドラー心理学では、そうした問題行動の裏にある「真の目的」に目を向ける必要があるとして、「問題行動の5段階」という考えを提唱しています。

第1段階「称賛の要求」

この段階の目的は「褒めてもらうこと」であり、もっと言えば「共同体の中で特権的な地位を得ること」です。

しかし、一方で「(自分が望むように)褒められない場合」には、不満を抱いたり、反発したりします。これは「良いこと」をしている訳ではなく、ただ「褒められること」をしているだけという背景があるからです。

従って、「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰を与える人がいなければ、不適切な行動も取る」というライフスタイル(世界観)を身に付けていくことになります。

第2段階「注目喚起」

次に、「いいこと」をしたのに褒められなかったり、褒められることをやり遂げるだけの勇気や根気がない場合、人は「褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考えます。

「目立つこと」で、特権的な地位を得たり、共同体の中で居場所を確保しようと画策する訳です。この段階における行動原理は「悪くあること」ではなく、「目立つこと」にあります。例え、叱られようとも、存在を無視されるくらいなら叱られて注目を集める方を選ぶということです。

例えば、悪戯のようにちょっとしたルールを破ること(ex.授業中に騒いだり、教師をからかったり、或いは学級の道化的な人気者になったり)によって注目を集めたり、逆に「できない子」(学力の著しい低下、忘れ物を繰り返したり、泣いたりする)として振る舞うことで注目を集め特別な地位を得ようとします。

第3段階「権力争い(反抗)」

この段階での目的は「権力争い」です。「反抗」とも言えます。

誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって自らの「力」を誇示しようとし、特権的な地位を得ようとすることです。

具体的には、親や教師に対して罵って挑発したり、癇癪を起こして暴れたり、万引きや喫煙に走り、平然とルールを破ったりします。
或いは、「不従順」によって権力争いを挑むこともあります。
勉強や習い事を拒絶したり、大人の言葉を無視したりといった具合です。
しかも、面白いことに、別に勉強をしたくないのでも、勉強が不要だと思っている訳でもなく、ただ不従順を貫くことによって、自らの「力」を証明したいと思っていることです。

第4段階「復讐」

権力争いを挑んだのに、歯が立たない。勝利を収めることができず、特権的な地位を得ることもできない。相手にされず、敗北を喫してしまう。そうして戦いに敗れた人は、一旦引き下がった後に「復讐」を画策するようになります。

そこで問題となるのが、「誰に何を復讐するのか?」となりますが、それはかけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に愛の復讐をすることになります。

3つの段階「称賛の要求」「注目喚起」「権力争い」。これらはすべて「もっとわたしを尊重してほしい」という「愛を乞う気持ち」の表れとも言えます。
そうした愛の希求が叶わない場合、「憎しみ」を求めるようになる訳です。
これは「憎悪」という感情の中でわたし(自分)に注目して欲しいと考えるようになるからです。

復讐の段階に突入した場合、誰からも称えられることはありません。親や教師、友人たちからも憎まれ、恐れられ、徐々に孤立していきますが、それでもなお、「憎まれている」という一点で繋がろうとする訳です。

「復讐」に由来する行動としては、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返します。

例えば、ストーカー行為(愛の復讐)や、自傷行為や引きこもりも復讐の一環とされています。その他には、暴力暴言のエスカレート、非行グループや反社会的勢力に入って犯罪に手を染めたり、常識では考えられないほど不清潔になったり、嫌悪感を抱くほどのグロテスクな趣味に耽溺するなど復讐の方法は様々なようです。

自傷行為や引きこもりが復讐の一環とされるのは、自らを傷つけ、自らの価値を毀損していくことで「こんな自分になってしまったのはお前のせいだ」と訴える訳です。これに対して、親は心配し胸を痛める訳ですから、子どもからすれば「復讐」が成功していることになります。

第5段階「無能の証明」

第5段階の最後は「無能の証明」です。

これまでの4つの段階を通じて色々とやってきたにも関わらず、自分を認めてもらえなかった場合には、「これ以上わたしに期待しないでくれ」という思いが「無能の証明」に繋がっていきます。

人生に絶望し自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようになり、これ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げるようになります。

「できるかもしれない」と課題に取り組んで失敗するくらいなら、最初から「できるはずがない」と諦めた方が楽なので、自分がいかに無能であるかをありとあらゆる手を使って「証明」しようとします。
愚者を演じ、何事にも無気力になり、どんな簡単な課題にも取り組もうとしなくなる。やがて自分でも「愚者としてのわたし」を信じ込むようになるという訳です。

まずは称賛を求め、次に注目されんと躍起になり、それが叶わなければ権力争いを挑み、今度は悪質な復讐に転じる。そして最終的には、己の無能さを誇示する。
そして、そのすべては「所属感」。
つまり、「共同体の中に特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。

引用:「幸せになる勇気」(p.104)より

褒めない理由は?

「アドラー心理学&教育」というテーマで避けて通れないのが「賞罰教育」(褒める・叱る)です。皆さんも、学生時代には褒められたり、叱られたりしたと思いますが、同心理学では「褒めてもいけないし、叱ってもいけない」という方針を取っています。

ここからは、なぜアドラー心理学では褒めることや叱ること、或いは承認欲求を否定するのかを見ていきたいと思います。

【理由その1】「褒めて伸ばす」を否定するのは「競争」が生まれるから

「褒められること」を目的とする共同体(学校や会社など)には「競争」が生まれます。それは褒賞を目指した「競争原理」に支配されるからです。

「競争」とは「相手」がいる訳ですから、「競争相手=敵」という図式が出来上がります。そうなると、「他者はすべて敵」「他者は自分を陥れようとする、油断らない存在」というライフスタイル(世界観)を身につけていきます。

それだけではなく、競争の中には駆け引きや不正のみならず、自分が有利に立つために相手を貶めようとすることすらあります。

また、ルールがあるスポーツは別として現実世界(特に社会)においてはそもそも「勝ち」の基準が明確ではありません。
例えば、評価や出世を決める場合、その基準は非常に曖昧です。例えば、昇進・昇格が会社の社長や上司の好き嫌いで決まったり、客観性が担保されていないことが多いのは皆さんも経験するところでしょう。

そこでアドラー心理学では「競争原理」ではなく、「協力原理」を共同体に求めています。「競争原理」を「縦の関係」とするならば、「協力原理」は「横の関係」です。

「協力関係にある共同体」とは、誰とも競争することなく、勝ち負けも存在しない。他者との間に知識や経験、また能力の違いがあっても構わない。成績、仕事の成果に関係なく、全ての人は対等であり、他者と協力する組織を意味しています。

【理由その2】承認に終わりはないから「承認欲求」を否定する

自分に自信がないから、他者から褒められる、承認されることを望む訳です。
しかし、他者から褒められ、承認されることは一時的には「価値」を実感することがあるかもしれませんが、所詮、外部から与えられたものに過ぎません。
外部から供給される以上、いずれ枯渇しますし、それこそ、他者にネジを巻いてもらわなければ動けないゼンマイ仕掛けの人形と同じことです。

結局のところ、他者から褒められること、認められることでしか幸せを実感できない人は「もっと褒められること」を永遠に求め続けることになります。
それは、もはや「依存」であり、「褒められること」を求め続ける人生であり、永遠に満たされることのない人生を生きることと同じです。

叱らない理由は?

【理由その1】「叱ること」に効果はない。なぜなら「叱られることを望んでいる」から

そもそも、本当に「叱る」という手段が有効であるならば、問題行動に対して「叱る」のは最初の数回で済むはずです。
ですが、実際は「いつも」叱っていたり、「また」叱ることになったりしているのではないでしょうか。
このこと自体が「叱る」という手段が教育上なんら有効でないことを意味していると言えます。

また、先に挙げた「問題行動の5段階」に沿って考えると、引き起こされた問題行動は「叱られること」を前提にしたものと言えます(注目喚起)。
叱責されることで注目を集めることが出来ますから、叱られること自体が彼ら彼女らの望みでもあるとも言える訳です。
むしろ、(学生時代などであれば特に)叱られことによって、自分は特別な存在であることを証明していることにも繋がるので、むしろ増長させてしまう可能性もあります。

(閑話)コミュニケーションの目的は合意の形成。暴力はコストの低い安直なコミュニケーション。

「伝えること」はコミュニケーションの入り口にすぎません。
最終的な目標は合意の形成です。
伝えるだけでは意味がなく、伝えた内容が理解され、一定の合意を取りつけたとき、はじめてコミュニケーションは意味を持つ。

言語によるコミュニケーションは合意に至るまでに相当な時間を要し、労力を要します。
しかも、費やされるコストの割に、即効性と確実性があまりにも乏しい

引用:「幸せになる勇気」(p.111-112)より

コミュニケーションの定義は引用文にある通りですが、即効性と確実性が乏しいため、合意がなかなか形成されない場合には、議論に時間を要すこともしばしばです。(時間をかけたとしても、合意に至るという確実性がある訳でもない)

そうした議論を面倒に感じたり、自分の言い分に勝ち目がないと感じた場合に取り得る最後の手段が「暴力」です。
「暴力」に訴えることで、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができます。
また、「暴力」とはいかないまでも、誰かと議論していたり、その議論が劣勢に立たされるなどした場合、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする人がいます。
これらの行為もまたコストの低い「暴力的」なコミュニケーションだと言えます。
従って「暴力」やそれに類する行為(声を荒げたり、机を叩いたり)は、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段だと言えます。加えて「暴力」は、道徳的な問題以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません。

【理由その2】「叱ること・怒ること」どちらもコストの低い未熟で「暴力」的なコミュニケーション手段だから

そして、「叱る」という行為もまた暴力的なコミュニケーションに値します。
(※ 暴力的なコミュニケーションに関しては「閑話」を参照下さい)

下記関連記事の中で、「叱る(建設的)」と「怒る(感情的)」は異なるものだと書いていますが、アドラー心理学では、「怒ること」も「叱ること」も同義だと説いています。

結局のところ、相手と言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っていると言えるからです。

それは、怒るも叱るも、暴力的な力の行使によって相手を押さえつけようとしている事実にはなんら変わりがなく、仮に「怒ること」を実弾入りの銃とするならば、「叱ること」は実弾の入っていない空砲の銃であり、受け手からすれば、「ピストルの銃口を向けられている」ということに変わりはないからというのが同心理学での考え方になります。

【理由その3】叱責は尊敬ではなく軽蔑を招くから

このように、「叱責」を含む「暴力」は人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションと言えます。
叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働くきます。
すなわち、相手から「あなたは未熟な人間」として見られる訳です。
当然、未熟な人間を「尊敬」することはできないはずです。
怒りや暴力(叱責を含む)を伴うコミュニケーションには「尊敬」が存在せず、むしろ「軽蔑」を招くものだと言えます。

「怒りとは人と人を引き離す感情である」

引用:「幸せになる勇気」(p.116)より

人生は「不完全」から始まり「劣等感」を抱え生きていくからこそ共同体感覚が内在する

人間は、「心の成長」よりも「身体の発達」の方が遅いおそらく唯一の生き物と考えられ、子供たちは心理面での「やりたいこと」と肉体面での「出来ること」のギャップに苦しむことになります。

例えば、周囲の大人はできるのに、自分(子供)には出来ないことがある。或いは、大人たちの話題に、自分(子供)は参加できないことがある。

こうした経験から「無力感」、更に言えば「自らの不完全さ」を経験することになるため、子供たちは原理的に劣等感を抱かざるをえなくなります。

つまり、「われわれ人間は子供時代、一人の例外もなく劣等感を抱えて生きている」と考えるのがアドラー心理学なのです。もっと言えば、あらかじめ「不完全な存在」として人生がスタートしているのです。

ですが、この劣等性は文明をもたらします。文明とは人間の生物的な弱さを補償するための産物だからです。
さらに、人間はその弱さゆえに共同体を作り、協力関係のなかに生きるようになりました。協力したかったのではなく、もっと切実に単独では生きていけないほど弱かったからです。
つまり、人間は一人では生きていけないことを本能的に熟知しているのですから、いつも他者との強固な「つながり」を希求し続けています。
それは、全ての人に共同体感覚が内在しているということを意味する訳です。

「自立」とは私の「価値」を「自ら」が決定すること

アドラー心理学において、他者からの承認を否定する以上、他にできることは「自らの意思で自らを承認すること」です。

承認欲求のようにわたしの価値を「他者」に決めてもらうことは「依存」です。
一方、わたしの価値を「自ら」が決定することを「自立」と呼びます。

自分に自信が持てないからこそ他者からの承認を必要とするという考えは「普通であることの勇気」が足りていないと言えます。
そもそも、「普通であること」はなんら恥ずべきところのない、一つの個性です。もしこの言葉を侮辱と感じるのなら、自分自身がまだ「特別なわたし」であろうとし、他者からの承認を求め、問題行動の5段階である称賛や注目喚起などの範疇で生きているということになります。

我々は「個性」を「他との違い」という意味で用いていますが、アドラー心理学では「人と違うこと」に価値をおくのではなく、「わたしであること」に価値をおくことこそが、本当の「個性」だと言っています。
わたしであることを認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立てようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他ならないからです。
あなたの価値を決めるのはあなただということを忘れてはいけません。

あなたの個性とは相対的なものではなく、絶対的なものなのです。

引用:「幸せになる勇気」(p.154)より

【書評その2へ】教育とは「仕事」ではなく「交友」、愛するとは?真の自立とは?

「教師」という職業が存在している以上、必然的に教師、教育者は「仕事」として生徒に接しているのが普通だと思います。

しかし、アドラー心理学では、教育とは「仕事(のタスク)」ではなく「交友(のタスク)」であり、生徒たちと築くべき関係は「交友」であると述べています。

なぜ、教師という教育者のプロとして報酬が伴う「仕事(のタスク)」ではいけないのか?
なぜ、仕事のタスクと交友のタスクの違いは?
愛するとは?
運命の人はいない!
真の自立とは?

こうした内容を【書評その2】の方にまとめる予定ですので、記事投稿までしばらくお待ち下さい(遅くとも今月中には投稿予定)。

感想

本当の教育の実践は「いと難しい」

さて、【書評その1】として「教育+α(自立)」を中心にまとめてみました。

まず本書に書かれている「教育について」の内容を読むと、「果たして本書に書かれているような教育を実践できている親や学校は日本に存在しているのでだろうか?」という疑問を持ちます。
劇薬と呼ばれるアドラー心理学を理解し実践することは困難だと言われているのですから、実際に同心理学を実践出来ている教育現場というのはほとんど存在しないのではないでしょうか?

わたし自身の学生時代を例に挙げると、学生時代にある科目を3年間授業をしてくれた先生が、最後まで私の名前を間違って覚えていました。
最初の頃は訂正していましたが、段々と面倒になって訂正しなくなった私も私ですが、アドラー心理学の考え方に従えば、それは先生が生徒に向けるべき「尊敬の念」を全く持っていなかったという証拠なのでは?と思ってしまいます。

そんなことを思い出していたら、漫画「GTO」の次のセリフがふと思い浮かびました(笑)

「てめーにとっちゃ、400人の生徒のたかが一匹だったかも、しんねーけど…生徒にとっちゃ担任教師はたった一人しかいねーんだよ!!」

引用:漫画「GTO」より

そもそも、アドラー心理学でいうところの「尊敬(その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうこと)」を向けられたことが学生時代にあったのか?と疑問に思います。
目をかけてくれた、良くしてくれた先生というのは、あくまで「勉強が出来る」とか「運動・スポーツが出来る」といった他と比べた「優位性」の面で接してくれていたのであって?純粋な尊敬という目ではなかったのではないかと勘ぐってしまう部分もあります。

まぁ、卒業して数10年たった今となっては詳しいことは覚えていないし、分からない部分も多いですが、大人になり同窓会などで先生方にお会いすると「あの時はお世話になったなぁ」といった感謝の念を持ちますし、教育の最終目標である「自立」に関しても、学生生活を通して「人間知」というのを学んだと思いますし、昔は多少人と比べてしまうこともありましたが、今は自分自身の価値を認めること(普通であることの勇気)は出来ているのではないかと思います。
(他者と比較しなくなったといより、他者への関心が薄れたのかもしれませんが…それはそれでまずいような(汗))

【おまけ1】カウンセリングや相談は「悪いあの人、かわいそうな私」に終始する/三角柱の話

カウンセリングや相談事を持ちかけられた場合、その話の中身は「悪いあの人、かわいそうな私」のいずれかの話に終始しているそうです。
あなた自身のことでも良いですし、あなたの周りで愚痴や不満をよく言ってる方を思い出してみて下さい。きっと、この二つに当てはまるはずです。

ですが、「悪いあの人」に対する同意を求め、「かわいそうな私」をアピールしたとしても、一時の慰めにはなったとしても、問題の本質的な解決にはなりません。(承認欲求を似たようなものですね)
本当に大事なのは「これからどうするか」という視点です。

実際、アドラー心理学におけるカウンセリングでは、それぞれの面に「悪いあの人」「かわいそうな私」「これからどうするか」と書かれた「三角柱」を相談者に渡し、その3つの中から話したい内容を選んで下さいと伝えると、多くの人が「これからどうするか」を選び話し出すそうです。
つまり、自ずと一番大事な選択肢を選んでいる訳です。
これは「過去」のアレコレではなく「今、これから」が大事であることを本能的にも理解しているのだと思います。

ちなみに、カウンセリングでよく聞かれる「先生のおかげで治りました」と言う場面がありますが、実際にはこれは何も解決していないことを意味しているそうです。
結局のところ、これは相談者を「(カウンセラーに対する)依存」と「無責任」の状態にしており、自分の力で立ち直ったという「自立」が決定的に欠けているからこそ、出てくるセリフだからです。

【おまけ2】学級での問題行動に家庭の教育・問題は関係ない

学校で問題行動を起こす生徒は、学校での教育が問題ではなく、家庭環境や家庭での教育(躾等も含む)が原因だとする、教育論があります。

いわゆる、それ(問題行動)は「学校の責任」ではなく「家庭の責任」というやつです。

これに対して、アドラー心理学では以下のように述べられています。

・人間のあらゆる言動を対人関係の中で考える。
・あらゆる言動にはそれが向けられる「相手」がいると考える
・実際、親に見せる顔と教師に見せる顔、友達に見せる顔、先輩や後輩に見せる顔が全て同じという人はいない。
・学級に問題行動をくりかえす生徒がいる場合、その問題行動は「あなた(教師)」に対して向けられていると考える。つまり、あなた(教師)に見せる顔の仮面を被った時に、他でもない「あなた」に向かって、その問題行動を繰り返していると考える訳です。
・そして家庭の教育が問題なのかどうかは「分かりえない」のだし、「介入しえない」と考える(課題の分離)。
・あなたの目の前で、あなたの視界に入る時を選んだ上で問題行動を繰り返しているのであれば、家庭ではない別の「世界」。すなわち「教室」に居場所を求めている。

確かに納得する部分もありますが、教師からすればなかなか受けられない考え方かもしれません。

しかし、アドラー心理学では、カウンセラーとは教育者であり、「教育者」とは「カウンセラー」であるという考え方があります。しかも、「カウンセリング」のことを「治療」とは考えず「再教育の場」だと考えるそうです。

であれば、家庭云々は考えず(考えてもどうしようもない)、教育者として問題行動を起こす生徒をカウンセリング(再教育)するしかないということです。
そもそも、居場所が欲しい、所属感を求めての「あなたへ」のメッセージなのですから。

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HOP CONSULTING
人事・労務コンサルタント(社会保険労務士)、経営コンサルタント(中小企業診断士)。福岡生まれだが熊本育ちのため、性格は典型的な「肥後もっこす」。 「ヒト」と「組織」の問題解決(人材教育・育成や組織変革)を専門とする。 また、商社時代に培った経験から財務・会計にも強く、人事面のみならず財務面からの経営アドバイスも行う。 他にも社会保険労務士、中小企業診断士や行政書士など難関国家資格を含む20個の資格にフルタイムで働きながら1発合格した経験を生かし、資格取得アドバイザーとしても活動中。
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