【書評:アドラーおすすめ本】「嫌われる勇気」のまとめと感想-人気魅力の理由はドラマ化?
書籍情報・購入経緯
【書籍情報】
著者:岸見一郎(きしみ いちろう)、古賀史健(こが ふみたけ)
著書:嫌われる勇気
値段 / 発行所:1,500円(税抜き) / ダイヤモンド社
その他書籍:「幸せになる勇気」
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え [ 岸見一郎 ] 価格:1,650円 |
【購入経緯】
4、5年程前に初心者向きの「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」という本を読んでアドラー心理学の概略を学んだのですが、いまもなおアドラー関連の書籍の中で本書「嫌われる勇気」の人気が高いので、何か理由があるのかと思って手に取ってみたもの。
もちろん、同心理学の内容の復習も兼ねています。
アルフレッド・アドラー人生に革命が起きる100の言葉 [ 小倉広 ] 価格:1,760円 |
【読む前に】アドラー心理学は常識へのアンチテーゼ的存在
まず、読む前に知っておいて欲しいことは、「嫌われる勇気」というインパクトのあるタイトルからも分かる通り、「アドラー心理学」はこれまで世間一般に考えられてきたような事柄に関して、真っ向から否定するような考え方が数多くあります。
馴染みのあるところでいえば、承認欲求の否定や、褒めない叱らないと言った考えです。
それゆえ「常識へのアンチテーゼ」のような位置づけになっています。
つまり、同心理学にはこれまでの自分の考えが覆るようなことも書かれているため、拒否感とか心理的な抵抗感を感じる方もいると思います。また、元々「心理学」といった分野に否定的な方もいらっしゃるでしょう。
とは言え、まずは先入観のないフラットな目で読んでみることをお勧めします。
その上で、どうするかはご自身の判断にお任せします。
何故なら、同心理学では、本人が変わろうとするか、それとも以前と同様変わらないままでいるかは、本人の自由(課題)だとする考え方が基本だからです。
まとめ(要約)
本書は哲人(哲学者)と青年が、対話・議論形式でアドラー心理学を学んでいくという構成になっていますので、本記事内の一部でも「哲人(哲学者)」という表現を用いています。
なお、本書の至る所にためになる話や考え方が散りばめられているので、まとめ(要約)で全部を網羅できている訳ではありません。字数や見出しの関係で、触れていない内容も多分にありますが、それにも関わらず長文(いや、駄文?)になったのはそれだけ伝えたい内容が多かったと言うことの表れだと思っていただけると幸いです。
本書の詳しい内容が気になる方は是非、実物を手にとってご確認下さい。
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え [ 岸見一郎 ] 価格:1,650円 |
すべての悩みは「対人関係」の悩み
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」というのがアドラー心理学の根底にある概念です。
一見、個人で完結しそうな内面の悩み(自己に向けられた悩み)の存在をも否定し、どんな種類の悩みであれそこには必ず他者の影が介在していると述べています。
同時に「悩みを消し去るには、宇宙の中にただ一人で生きるしかない」と述べていますが、これは文字通り、宇宙に自分一人であることを意味しそんな状況であれば孤独すらも感じない(そもそも「孤独」という言葉そのものも存在しない)ので、悩みも生まれないというものです。
しかし、本書内で哲人(哲学者)が述べている通り、実際には人間はその本質において他者の存在を前提としているため、そんなことはありえません。
生きている限りにおいて、対人関係に晒され、繋がっているのです。
原因論ではなく「目的論」で考える
もう一つアドラー心理学で大切なものが、「原因論」ではなく「目的論」で考えるというものです。
(フロイト的な)「原因論」とは、「あらゆる結果の前には原因がある」、「現在のわたし(結果)は、過去の出来事(原因)によって規定される」と言った考え方です。
一方、「目的論」とは、人は過去の「原因」によって突き動かされるのではなく、「いまの何かしらの『目的』に沿って生きている」という考え方です。
本書内の事例を用いれば、引きこもり者は「不安だから外に出られない」と考えるのが原因論であり、「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのが目的論となります。
人は変わらないのではなく、自分自身が「変わらない」と決心している
「トラウマ(過去の出来事がきっかけで、長い間それに囚われてしまう状態)」に代表されるように多くの方は原因論で考えがちでが、「目的論」で考えることでこれまでとは違った見方・考え方が出来るようになります。
目的論の本質は、問題は「過去」ではなく現在の「ココ」にあるという考え方です。
例えば、ライフスタイルで悩む方は大勢いらっしゃいます。
(ここでいう「ライフスタイル」とは人生のあり方、性格や気質といったもの)
と同時に、「何とか現状を打破し、変わりたい」と人は願うものです。
しかし、「変わりたいけど、変われない」という嘆きが繰り返されている通り、これがなかなかうまくいかない。
それに対して、哲人(哲学者)は以下のように述べています。
・人は変われないのではなく、ただ『変わらない』という決心を下しているに過ぎない
つまり、今あなたが自分の性格や不幸な境遇を嘆いていたとしても、それは生まれや育った環境のせいではなく、あなた自身が今のあなたのライフスタイルを選び取ったということです。
そして、同時に「人はいつでもどんな環境に置かれていても(ライフスタイル等)変われるということ」も示唆しています。
(これは、ライフスタイルが先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであり、であれば、再び自分で選び直すことも出来るという考え方が前提となっています)
「変わる」には過去でも環境でも能力でもなく、「勇気」が必要
それでは、「変わりたくても変われない」という言葉の裏に潜む真実を考えてみましょう。
もし「このままのわたし(今まで通り)」でいれば、目の前の出来事にどう対処すれば良いか、そしてその結果どんなことが起こるのかと言ったことが、これまでの経験から推測できます。
いわば、乗り慣れた車を運転しているような感覚と言えます。
一方で、これまでのライフスタイル(人生のあり方、性格・気質)を変え、新しいライフスタイルを選んでしまうと、これから自分に何が起こるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処して良いのかも分かりません。未来が見通しづらく不安だらけの人生を送る可能性もあります。さらにはもっと苦しく不幸な人生が待っていることもあり得るかもしれません。
こうしたことから、人は色々と不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることの方が楽であり、安心という感情に支配されるという訳です。
同じようなことを資格勉強法の記事の中でも書いていますが、人間は基本的に「楽で慣れた状況を好むもの」です。
それは、仕事をした後にそこから資格の勉強をするよりも、買い物したり遊んだり、友人と居酒屋でビールを飲んで過ごす方が選びがちと言った行動からも分かります。
また、仕事の後や休日に勉強をすれば、人付き合いも必然的に悪くなります。そうすると、今まで付き合いのあった人との関係悪化も気になりますし、家族がいれば家族と過ごす時間も減少し、家庭内の雰囲気も悪くなる可能性もあります。更に「勉強する」ということ自体がストレスにもなります。
資格の勉強をすることで、プラスの面(スキルアップ、転職、出世等)もあると思いますが、同時にマイナス面(慣れ親しんだ環境を捨てる、人付き合いが悪くなることによる対人関係の悪化、勉強による自信へのストレス増加等)もある訳です。
資格勉強を始める時にここまでのことを考える人はいないかもしれませんが、段々とこうした懸念事項が明るみになれば、これまで感じる必要もなかったストレスや不安が押し寄せて、結局、元の生活に戻ってしまうといったことが背景として考えられる訳です。
では「変わるためにはどうするべきか?」ということに対して、哲人(哲学者)は以下のように述べています。
変わろうとする時、われわれは大きな「勇気」を試される。
変わることで生まれる「不安」と変わらないことで生まれる「不満」。
変わられない人は後者を選んだということ。そして、あなたが変われないのは、過去や環境のせいでも、ましてや能力が足りないのでもない。ただ勇気が足りない。
引用:「嫌われる勇気」(p.52-53)より
言うなれば「幸せになる勇気」が足りていない。
(アドラー心理学は別名「勇気の心理学」とも呼ばれる)
「もしも何々だったら」と考えているうちは無理
皆さんの中にも「もしも何々だったら」と考えた経験があると思います。
今現在も、そのように考えている方も多いでしょう。
「もし〜さんのようにカッコ良かったら(可愛かったら)だったら」
「もし〜さんのような明るい性格だったら」
「もし〜さんのように仕事がバリバリ出来たら」と…。
そのように考え方に対して哲人は、「もしも何々だったら」という可能性の中に生きているうちは、変わることなど出来ないと断言しています。
何故なら変わらない自分への言い訳として、「もしも何々だったら」という言葉を使っているからです。
もしかしたら、あなたも知らず知らずのうちに、可能性の中に生きていることがあるのではないでしょうか。
残念ながら、そのように考えているうちは絶対に変わることは出来ないということです。
「いま、ここ」を生きるために自らの意味づけを変えなければならない
アドラーの目的論は、「これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない。自分の人生を決めるのは『いま、ここ』にいるあなた」という考え方です。
(補足:「いま、ここ」に関しては、見出し「3.11 人生は連続する刹那」、「3.12 人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないこと」もご参照下さい)
そのためには「世界がどうあるかではなく、あなたがどうあるか」という世界や自分への意味付け(ライフスタイル)を変えることが必要になります。
何故なら、われわれは自ら意味付けをした主観的な世界に住んでいるからです。
そして、われわれは自分の主観から逃れることはできません。
だからこそ、意味付けを変えるということは、世界との関わり方、ひいては行動までが変わらざるを得なくなる(ライフスタイルが変わる)ということを意味しています。
世界が複雑に見えるのは、自分の主観がそうさせていて、人生が複雑なのではなく、「わたし(自ら)」が人生を複雑にし、それゆえ幸福に生きることを困難にしている
引用:「嫌われる勇気」(p.53)より
アドラー心理学における目標(人間の行動面と心理面のあり方)
アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、以下のような明瞭な目標を掲げています。
① 自立すること
② 社会と調和して暮らせること
【行動面を支える心理面の目標】
① わたしには能力がある、という意識
② 人々はわたしの仲間である、という意識
社会人として働いている方であれば、なんとなく言わんとすることは理解できるのではないでしょうか?
そして、アドラーは、これらの目標は「人生のタスク(後述参照)」と向き合うことで達成できるとしています。
人生のタスク(課題)と人生の嘘
人生のタスクについて
アドラー心理学では、ひとりの個人が社会的な存在として生きていこうとする時、直面せざるを得ない対人関係のことを「人生のタスク(課題)」と呼んでいます。
人生のタスクとは、以下の3つです。
・交友のタスク
・愛のタスク
「交友のタスク」や「愛のタスク」に対人関係が内包していることは容易に想像できると思いますが、「仕事のタスク」もまた同様です。
どんな種類の仕事であれ、ひとりで完結する仕事はありません。
一見、一人で完結しているように見えても、関係者は存在しています。
われわれが社会的な存在として生きていこうとする以上、これらのタスクから逃げることなく、どれほど困難に思える関係であっても、向き合わなければな利ません。仮に(関係を)断ち切ることになろうとも向かい合うことが大切で、一番最悪なのはそのままの状態で立ち止まることだと同心理学では述べています。
これら3つのタスク(人生のタスク)と向き合うことで、同心理学における目標(行動面と心理面のあり方)が達成できるという訳です。
ちなみに、全てのタスクに対人関係が関係している以上、重要なのは関係の距離と深さです。交友のタスクに代表されるように、友人・知人の数は全く価値がないということも合わせて押さえておきたいところです。
人生の嘘について
一方で、様々な口実を設けて、これらの人生のタスクを回避しようとする事態を「人生の嘘」と呼んでいます。
これは、いま自分が置かれている状況、その責任を誰かに転嫁することです。
他者のせいであったり環境のせいだったり、或いは感情的なもの、自らの病気等、己以外の色んなもののせいにして、人生のタスクから逃げることを意味しています。
例えば、本書にも紹介されている仕事のタスクで考えてみましょう。
一般にニートや引きこもりは「仕事がしたくないから仕事をしない」と思われがちですが、そうではなく、履歴書を送り、面接を受ける過程で不採用になることで自尊心を傷つけられたり、仕事でのミスや失敗を通じて、他者から非難され、叱責されたり、そうしたことから能力がないと感じたり、無能の烙印を押さえれるなど、自分自身の価値、尊厳を傷つけられることが怖いといった「仕事にまつわる対人関係」を避けたいがために働こうとしないとアドラー心理学では考えます(本人(ニートや引きこもり)がどれだけ自覚しているかは別として…)。
ですが、先にも述べたとおり、アドラー心理学では、自らの手でライフスタイル(人生のあり方、性格・気質等)を決めていると考えるので、他者や環境に責任転嫁することはできません。
ですから、人生の嘘に対する解決策は「責任の所在は、何者でもない自分自身に在る」ということを認める勇気の問題とも言えます。
対人関係の出発点は「課題の分離」
冒頭で述べたように、アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係である」というのが根底概念にあります。
逆を言えば、「対人関係の悩み」が解決すれば悩みはなくなる(解決する)ともいえます。
本書では、対人関係の出発点(入口)として「課題の分離」を提唱しています。
「課題の分離」とは、ある課題を「これは誰の課題なのか」という観点で考え、自分の課題と他者の課題を分離した上で、自分の課題に集中し、他者の課題には一切踏み込まないということを意味します。
そして、「誰」の課題かを見分ける方法は至ってシンプルで、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」という視点で考えます。
本書の例を一つ取り上げてみましょう。
「子供がなかなか言うことを聞いてくれない」と悩む親も多いと思います。
特に勉強に関しては、「遊んでないで、勉強をしなさい」「宿題はやったの?」「勉強しないといい大学、いい会社に入れないわよ」と口煩く言っている親も多いのではないでしょうか?
この勉強に関して課題の分離をするならば、「勉強する」という課題は「子供の課題」です。
間違っても親の課題ではありません。
それ(子供の課題)に対して、親が「勉強をしなさい」と言ったり強制的にさせようとすることは、他者の課題に対して、土足で踏み込む行為となります。
さも、「子供の将来を思って言っている…」と反論される親もいらっしゃると思いますが、それは「子供のため」ではなく「自分(私)のために」言っているということを自覚しなければなりません。
他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。
「子供のため」と言いながら、その実、世間体(見栄)や支配欲と言ったものが背後にあるのではないでしょうか?
そして、そんな背後にあるものを子供は敏感に感じて、余計「勉強しない」という反抗心が生まれるものなのです。
このように、アドラー心理学では「自分の課題と他者の課題を分離し、他者の課題には踏み込まない」ということが原則となります。
こうしたことをうまく表現した格言が本書の中で紹介されています。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」
引用:「嫌われる勇気」(p.143)
結局のところ、周りがいくらサポートしたとしても、「やるやらない」、ひいては「変わる変わらない」は本人次第。
つまり、「自分を変えることができるのは、自分しかいない」というのがアドラー心理学です。
では、親は何もしないで放っておけば良いのかと言えばそうではありません。
放任(主義)とは子供が何をしているのか知らない、知ろうともしないという態度を言うそうですが、そうではなく何をしているか知った上で見守ることが大切だと本書では述べています。
宿題をしたり、勉強をすることは「本人の課題」であることを伝え、勉強がしたい時には十分に支援する用意があることを伝えておきます。そうした上で、子供の課題には踏み込まず、あれこれ口や手を出さないと言うスタンスを貫くことが必要となる訳です。
同時に「子供を信じること」もまた親の課題であることを忘れてはいけません。それは「子供が勉強してくれると信じる」ということだけではなく、例え子供が親の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるかということです。
子供との関係に悩む親の特徴とは?
ちなみに、子供との関係に悩んでいる親は、「子供こそ全て」と言う考えに染まり、子供の課題までも自分の課題と思って悩みを抱え込んでしまっているところに問題があります。可愛い我が子とは言え、子供は独立した個人であり、親の思い通りにはならないということを忘れてはいけません。
対人関係のゴールは「共同体感覚」
対人関係の入り口が「課題の分離」であるならば、「ゴールはどこ?」という疑問が湧くのは当然だと思います。
その疑問に対して、アドラー心理学では「対人関係のゴールは共同体感覚」だと述べています。
「共同体感覚」とは他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを言います。
(補足:「共同体」について、家庭や学校、職場、地域社会といったものを想像する方が多いと思いますが、アドラーの提唱する共同体とは、そうしたもの(職場や地域社会)だけでなく、例えば国家や人類などを包括した全てであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるとし、さらには動植物学や無生物までも含まれると定義しています。文字通り「すべて」が共同体なのだということです)
自己への執着を他者への関心に切り替える
共同体感覚を理解するには、まず「自己への執着を他者への関心に切り替えていくこと」が重要となります。
この場合、「自己への執着」を「自己中心的」と読み替えると分かりやすいでしょう。自己中心的な人のイメージといえば、暴君や集団の和を乱す自分勝手な人と言ったことが一般に思いつくと思います。
一方、他者からの評価を気にしたり、他者に気を遣い、他者に合わせようとしている人は一見、自己ではなく他者へ関心があるかのように映りますが、同心理学では「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルだと考えています。
(そうした考え方から、承認欲求に囚われている人もまた自己中心的な人とみなされます。詳細は後述の「見出し:承認欲求の否定」参照)
そうした自己への執着から脱却し他者への関心を持つためには、「わたしは人生の主人公でありながら、あくまで共同体の一員であり、全体の一部だ」と言う考え方が重要になります。
我々人間は共同体の一員として何処かに所属しています。そして共同体の中に「自分の居場所がある」「ここにいてもいいんだ(安心感)」といった所属感を求めています。これは人間の基本的な欲求といえるものです。
しかし、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが「積極的にコミットすること」によって得られるものだと考えられています。
ここでいう積極的にコミットするとは「人生のタスク」に立ち向かうことを意味しています。つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクから逃げることなく、自らの足で踏み出していくことが求められるということです。
もし、自己へ執着し、自分は世界の中心と考えていたら、そもそも共同体へのコミットなど考えません。
なぜなら、あらゆる他者は自分のために何かをしてくれる人であり、自分から動く必要などないからです。
「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく、「私はこの人に何を与えられるか?」を考えることが共同体へのコミットとなる訳です。
だからこそ、自己への執着ではなく他者への関心に切り替える必要がある訳です。
「横の関係」と勇気づけのアプローチ
さらに、課題の分離(入り口)から共同体感覚(ゴール)へ進むための道筋として、あらゆる「縦の関係」を否定し「横の関係」を提唱しています。
「縦の関係」には、上下関係のみならず、褒めたり叱ったりと言った行動も含まれます。
一方、「横の関係」は「同じではないけど対等」という立場で考えます。
例えば、会社員と専業主婦は、働いている場所や役割が違うだけで「同じではないけれど対等」となる訳です。
そして、「横の関係」を築く上で非常に重要なことは相手が何かした時、或いは何かしてもらった時に「ありがとう」「助かった」といった「純粋な感謝やお礼の言葉」を用いることです。
人は感謝の言葉を聞いた時に、自らが他者に貢献できたことを知ります。
そして、人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えた時にこそ、自らの価値を実感します。さらに、人は自分に価値があると思えた時にだけ、勇気を持てるのです。
このように横の関係に基づく援助のことを「勇気づけのアプローチ」と呼びます。
なぜ、勇気づけと呼ぶかというと、人が課題を前に踏みとどまっているのは能力の有無ではなく、「課題に立ち向かう『勇気』がくじかれていることが問題」だと考えているためです。
また、縦の関係と横の関係を使い分けることはできず、縦か横かどちらか一方しか選べないとも述べています。
つまり、誰か一人でも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちにあらゆる対人関係を「縦」で捉えているということです。
一つ誤解してはならないことは、横の関係が大切だからといって誰とでも友達付き合い、親友のように振る舞いなさいということではなく、意識の上では対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することがその本来の意味です。
このように他者に関心を寄せ、横の関係を築き、勇気づけのアプローチをしていくこと、これらは全て「わたしは誰かの役に立っている」という実感に繋がります。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて自らの価値を実感することができるのです。
共同体感覚を持てるようになるためには「自己受容・他者信頼・他者貢献」が必要
共同体感覚を持てるようになるためには、自己への執着を他者への関心に切り替える必要があると述べましたが、そのために必要になるのが以下の3つです。
(2) 他者信頼
(3) 他者貢献
(1)自己受容について
「自己受容」と似た言葉で「自己肯定」という言葉がありますが、「自己肯定」は出来もしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と自らに暗示をかけることです。これは自らに嘘をつく生き方です。
一方で、「自己受容」とは、仮にできないとしたらその「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことで、自らに嘘をつくものではありません。
50点だろうと、60点だろうと、ありのままに受け入れ、「100点に近くにはどうしたら良いか」を考えることが自己受容です。
われわれは「何が与えられているか」について、変えることはできません。
しかし、「与えられたものをどう使うか」については自分の力によって変えていくことができます。
だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかない訳です。
変えられるものについては「変えていく勇気を持つこと」、それが自己受容です。
神よ、願わくばわたしに、帰ることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ
引用:カート・ヴォネガット(作家)/「スローターハウス5」より(キリスト教・ニーバーの祈り)
(2)他者信頼について
「信頼」と「信用」の違いは、「条件の有無」です。
他者を信じるにあたって一切の条件をつけないのが「信頼」です。
一方、信用とは条件付きの話です。
例えば、会社が借入をする場合、個人保証や会社の土地や建物を担保にとり、それを条件にお金を貸し出します。
つまり、「他者を信じる」と一言でいっても、アドラー心理学では無条件に信じる「他者信頼」が求められるということです。
ちなみに「誰かを信頼したところで、裏切られるだけだ」と考える方も多いと思いますが、裏切るか裏切らないかを決めるのは他者の課題であって、あなたの課題ではありません。課題の分離で考えれば、あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいと言うことになります。
従って、「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう(信頼しましょう)」というのは、担保や条件に基づく信用の関係であり他者信頼ではないと言うことです。
もう一つ忘れてはならない重要なことは、「無条件の信頼」とは対人関係を良くするために、横の関係を築いていくための一つの「手段」に他ならないと言うことです。
もしあなたがその人との関係を良くしたいと思わないのなら、ハサミで断ち切ってしまっても構いません。それは「あなたの課題」なのですから。
重要なことは、道徳的に「(人間は)他者を無条件に信頼しなければならない」と言っている訳ではないということです。
(3)他者貢献について
「他者貢献」とは、仲間である他者に対して、何らかの働きかけをしていくことを言います。
注意して欲しいことは、他者貢献≠自己犠牲であると言う点です。
他者貢献とは、「わたし(自分)」を捨てて誰かに尽くすことではなく「わたし(自分)」の価値を実感するためにこそ、なされるものです。
最もわかりやすい他者貢献は「仕事」です。
労働とは、金銭を稼ぐ手段というだけでなく、労働によって他者貢献をなし、共同体にコミットし、「私は誰かの役に立っていること」を実感して、ひいては自らの存在価値を受け入れているのです。
(1)〜(3)は一つも欠かすことができない
(a)「自己受容」するからこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」をすることができます。
(b)そして、他者に無条件の信頼を寄せて自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」することができます。
(c)さらに他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れることができる(自己受容)訳です。
つまり、(1)〜(3)のサイクルが延々と繰り返される円環構造になっています。
また、(1)〜(3)をアドラー心理学の行動面・心理面の目標に重ね合わせると以下のようになります。
① 自立すること → 自己受容
② 社会と調和して暮らせること → 他者信頼・他者貢献
【行動面を支える心理面の目標】
① わたしには能力がある、という意識 → 自己受容
② 人々はわたしの仲間である、という意識 → 他者信頼・他者貢献
すなわち、(1)自己受容(2)他者信頼(3)他者貢献を持つことが共同体感覚に繋がる訳ですから、「人生の目標(ゴール)は共同体感覚」だと言うことになります。
幸福とは「貢献感」である
一般に、「行為レベル(他者のために何かをする)」での貢献が求められると思われがちですが、アドラー心理学では「存在レベル(そこにいるだけで良い)」であれ、自分が誰かの役に立っていると感じれば「幸福になれる」と説きます。
極論すれば、「幸福」になるためには、自分が貢献感さえ持てればそれで良い訳です。
(自分が役に立てているとという主観的な感覚があれば良い)
なぜなら、あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではなく他者の課題で、あなたが介入出来る問題ではないからです。
また、本当に貢献できたかどうかというのは、原理的にも分かり得ないものなのですから。
人生は「連続する刹那(点)」
これがアドラー心理学における人生の考え方です。
しかし、一般には人生を「線(或いはレール)」に置き換えることが多いのではないでしょうか。
人生を「線」で考える場合、目標(目的地)に到達できなければ「(人生の)失敗」であるように見做されてしまいます。
また、目標(目的地)に到達するまでは「人生の途上」であり、到達していないという点において「不完全」「道半ば」ということにもなります。
一方で、人生を「点」で考える場合、線のように映る生は点の連続であり、人生とは「いま」という刹那の連続であると考えます。
「いま、ここ」にしか生きることができない。
つまり、われわれの生とは刹那の中にしか存在しないという考え方です。
本書での例を用いれば、その違いは「山登り」で表現することが出来ます。
「線(目標・目的地)」で考えた場合、「登頂すること」が目的となります。
従って、山頂に辿り着けなかった場合は「失敗」ということです。
一方、「点(『いま』という刹那の連続)」で考えた場合、「登頂ではなく登山(山登り)そのもの」が目的となります。結果として、山頂に辿り着くかどうかは関係がありません。
一歩一歩、山を登り、その間、見た景色や体感したこと、疲労感なども含めて楽しんでいる訳で、過程そのものを結果とみなすようなものです。
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないこと
人生を「点」と考えるということは、「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てることを意味します。
演劇を行う舞台を想像してみて下さい。
そこに立つ自分という主人公に強烈なスポットライトを当てると、周りは見えなくなるはずです。
つまり、人生に置き換えるならば、見えているのは「いま、ここ、自分」だけであり、過去や未来は見えないということです。
もし、過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりした光(強烈なスポットライトではない)の中に生きている証拠です。
本来、「いま、ここ」にスポットライトが当たっていれば、過去にどんなことがあった、未来がどうであるかは全く関係がなくなるはずです。
しかし、「線」で見る場合には、どうしても人生を物語(ストーリー)として捉えがちです。
どんな幼少期で、どんな学校を出て、どんな会社に入ったか、そうした中で、今のわたしがいて、そしてこれからのわたしがいるのだと…。
しかし、物語の特徴でもあり短所でもある点は、「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまうことにあります。例えば、小説などを読むとき、「おそらくこうなるだろう」と推測してしまうことがあると思いますが、これと同じことです。
小説と異なることは、自らが人生(物語)の主人公であるため、その物語の大筋に沿った生き方を送ろうとする力が働いてしまうことです。
わたしの人生はこんなものだから、過去の環境がこうだから、わたしはその通りに生きるしかないといった具合に原因論に馴染んでしまう訳です。
ですが、こうした言い訳は、まさしく「人生の嘘」に他なりません。
「いま、ここ」にスポットライトを当てるということは、今できることを真剣かつ丁寧にやっていくということです。
そして、過去をみて、未来をみて、人生全体を薄らぼんやりとした光を当てて、何かが見えたつもりなることこそが、人生における「最大の嘘(いま、ここを生きていない)」なのです。
過去は消えず
引用:Mr.Children「ヒカリノアトリエ」より
未来は見えず
不安は付きまとう
だけど明日を変えていくんなら今
今だけがここにある
嫌われる勇気について
まとめ(要約)の最後は、本書のタイトル「嫌われる勇気」について触れておきます。
本書の中で、青年は「自分の好きなように生きることは難しい(好きに生きろと言われても、本当は何がしたいのか分からない)から他者の目を頼りに生きるしかない」と嘆いています。
他者の目を気にしている(承認欲求を求めている)のは、誰からも嫌われたくないという気持ちが根底にあるからです。
事実、哲人(哲学者)は、「他者から嫌われたくないと思うこと」は人間の本能的な欲望・衝動だと答えています。
しかし、そうした欲望に従い、生きることが「自由なのか」と言えばそうではないと否定しています。なぜなら、そのような生き方は欲望・衝動の奴隷でしかないからです。
むしろ、「自由とは他者から嫌われることである」と主張しています(つまり、嫌われる勇気)。
あなたが誰かに嫌われていることは、あなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることの「しるし」だからです。
誰からも嫌われないためには、あらゆる他者に忠誠を誓わなければなりません。それは他者の期待を満たすように生きることと同義です。
しかし、そのような生き方には矛盾が生じます。
やりたくもないことをやると言ったり、出来ないことを出来ると言ったりと。
これは自分に嘘をつき、他者に対しても嘘をつき続ける生き方に他なりません。
だからこそ、他者の評価を気にせず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない(自由になれない)と主張している訳です。
「嫌われる勇気」を持つ上で、重要になるのが「課題の分離」です。
そもそも相手が「あなたのことを嫌うかどうか」或いは「あなたのことを好きになるかどうか」ということは、「他者の課題」であってあなたの課題ではありません。
また、あなた自身が、これだけ相手(他者)のためにやってあげたのだから何らかの見返りがないといけない(例えば好きになってくれないとおかしい)と考えることは課題の分離ができていない証拠です。
課題の分離が出来ていれば、こうした「(主語が私であれ他者であれ)何かをしてもらったら、それを返さないといけない」といった見返り的な発想は生まれません。相手がどんな働きかけをしてこようとも、自分のやるべきことを決めるのは自分だし、逆もまたしかりです。見返りに縛られてもいけませんし、求めてもいけません。
嫌われたくないという欲望を抑え、嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく、坂道を転がるように生きるのではなく、坂を登っていくそれが人間にとっての自由です。ですから、自由とは、他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫くということです。
・アドラー心理学では、対人関係のカードは相手ではなく自分が常に持っていると考えます。そして、自分が変わったところで、変わるのは自分だけ。(自分が変わった)結果として、相手がどうなるかは分からないし、自分が関与できるものでもないと考えます。
・しかし、承認欲求に縛られていると「あの人は自分のことをどう思っているのだろう」と気になり、他者の希望を満たすような生き方をしてしまうので、対人関係のカードはいつまでも他者の手にあると考えてしまいます。
アドラー関連のその他の書評
感想
ここからは、本筋(アドラー心理学)とは別の視点も交えつつ、わたしが特に印象に残った論点を取り上げておきたいと思います。
人気の理由はドラマ化?でも…ドラマは酷評だった?
本書「嫌われる勇気」を原案とした刑事ドラマが女優・香里奈主演で放送されています(2017年1月期放送)。
書籍のドラマ化やアニメ化により、人気が出る事はよくあります。
最近で言えば、「鬼滅の刃」もテレビアニメ化が人気爆発のきっかけでしたよね。
本書も同様にドラマ化のおかげで人気に拍車が掛かったかと思えば、最終回の平均視聴率が5.7%とドラマの人気自体は低調だったようです。
私もこのドラマが気になってチラ見しましたが、アドラー心理学がなんたるかをうまく表現出来ておらず、「嫌われる勇気」という言葉がなんだか一人歩きして、「自分が嫌なことは何でもかんでも拒否して(一部、攻撃的では?と思うことも)、自分でやれば良い」と言った変な誤解を生むような内容に見えるというのが私の印象でした。
それを裏付ける訳ではないですが、放送が始まりしばらくすると「日本アドラー心理学会」が抗議文を公式サイトで発表したそうです。抗議文の内容は「ドラマは世界のアドラー心理学における一般的な理解とかなり異なっているため、放映の中止か脚本の大幅変更を求める」と言ったものでした。
こうした話題(トラブル?)もありましたが、一応、最終話(第10話)まで放送されています。
私は「アドラー心理学(の再現性)」をメインに据えて観たのでこのような感想を抱きましたが、単純に好きな俳優や女優が出演している作品(ドラマ)や刑事ドラマとして楽しむ方には、また評価が変わってくると思います。
いずれにしろ、世間が「アドラー心理学」を知る良いきっかけにはなったと思います。
(アドラー心理学会の立場で言えば、内容的に誤解を生んだ部分もあったのかもしれませんが…「アドラー心理学」という言葉は世間を賑わせたはずです)
それもそのはず、生きてきた年数の半分が必要になるほど、実践するのが難しい
ドラマが日本アドラー心理学会から抗議を受けたことはある意味当然のことかもしれません。なぜなら、アドラー心理学の実践に関して本書では以下のように述べてられているからです。
アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。
引用:「嫌われる勇気」(p.242-243)より
つまり、(アドラー心理学の)考え方はシンプルであっても、それを日常で実践していくことは難しく、長い年月を要すという訳です。
ということは、いちドラマとして見た場合、アドラー心理学に精通し、うまく表現(演技)やセリフ、ストーリーに組み込まなければ、それらしいものは出来上がらないとも言えます。
嫌われる勇気とは「嫌われてもいい」ではない
どうも「嫌われる勇気」という言葉が一人歩きしているのではないかと思います。
ですが、決して自己中心的に我儘に振る舞って、その結果「嫌われてもいいじゃないか」という意味で使われている訳ではありません。
そうした変な誤解を生まない、或いは誤解の解消のためにも、「嫌われる勇気」の意味があまり理解していない方は、是非、一度アドラー心理学に触れてみることをお勧めします。
「劣等感」とは対人関係の中での主観的な思い込み
本書では劣等感について以下のように述べています。
人は、顔(顔のパーツも含む)だったり、身長だったりに劣等感を抱くことがあります。
例えば、一重の方は二重だったら良かったのにとか、身長が低い方はあと10cm高ければと言った「可能性」を夢見てしまいがちです。
しかし、われわれが劣等感として悩まされるものの多くは、「客観的な劣等性」ではなく、主観的な劣等感」であるとということをアドラー心理学では述べています。
「劣等性」とは事実として何かが欠けていたり、劣っていたりするという意味で用いられています。例えば手や足が怪我や病気等で不自由とか視力が悪いと言った具合です。
自分が劣等感として抱えている悩みは、他者との比較、対人関係の中で生まれた主観的な劣等感であることが多い訳です。
あなたの劣等感の原因も「誰々と比べて自分は…」という想いから発生しているのではないでしょうか。
つまり、劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」によるものです。
客観的な事実は変えることが出来ませんが、主観的な解釈は自分次第でいくらでも変えることが出来ます。
自らの手で、別の意味づけを与える(例えば、短所を長所と捉える、違った見方をしてみる)ことで、いかようにもできるということです。
我々が使っている「コンプレックス」は「劣等コンプレックス」
本書では、我々は「劣等感」と「コンプレックス」を同義語として使っていると指摘しています。
本来、心理学において「コンプレックス」とは複雑に絡み合った倒錯的(本来のものと正反対の形を取って現れること)な心理状態を表す用語であり、劣等感とは関係のないものです。
そして、アドラーは「優越性の追求(*)も劣等感(**)も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と述べており、劣等感それ自体、悪いものではないと述べています。
(*)優越性の追求:向上したいと願うこと、理想の状態を追求すること
(**)劣等感:理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱くこと
一方で「劣等コンプレックス」という言葉があり、これは自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを言います。
簡単に言えば、「Aであるから、Bできない」という理論です。
身近な例でいえば「顔がかっこ良くない(或いは可愛くない)からモテない」と言った具合です。皆さんにもどこか覚えがあるのではないでしょうか?
このように本当は何の因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるように自らを説明し、納得させてしまうことを「見かけの因果律」と言います。
例えば、「学歴が低いから成功できない」というのはあたかも本当のようですが、目的論に立てば「成功できない」ではなく「成功したくない」と考えているとも言えます。
それは、一歩踏み出すことが怖く。また、(成功するための)現実的な努力をしたくない。今の楽しみを犠牲にしてまで変わりたくない。と言った、現在のライフスタイルを変える勇気がないということです。
「見出し:「変わる」には過去でも環境でも能力でもなく、『勇気』が必要」でも述べたように、多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいたほうが楽という気持ちが働いている訳です。
「承認欲求」の否定
「承認欲求」(著者:太田 肇)というタイトルの本がベストセラーにもなりましたが、そんな「承認欲求を否定する」立場に立つのがアドラー心理学です。
例えば、SNS(ツイッター、インスタ、FB)などがこれだけ流行っているのは、自分の投稿に対して他者からの「いいね」「コメント」が付くことで、簡単に自身の承認欲求(他者から認められる)を満たすことができるということが背景にあると言われています。
また、「承認欲求を満たすことで自信を持てたり、やる気になる」と言った理由で、会社や社会の中でもマネジメント手法の一つとして用いられています。
さて、アドラー心理学では何故、承認欲求を否定しているのでしょうか?
賞罰教育の影響
その一つは「賞罰教育」の影響による危うさです。
我々は子供の頃から様々な場面を通して、「適切な行動をとったら、褒めてもらえる。逆に、不適切な行動をとつたら、罰せられる(叱られる)」という経験をしています。
しかし、これにはある種の危うさが内包されています。
それは「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」というものです。
例えば、周りに誰もいなければ、赤信号でも歩道を渡ろうとする、といったちょっとした悪い行い(マナー違反)をした経験が皆さんもあるのではないでしょうか?
今のようなコロナ禍で言えば、屋内では特にマスク着用が推奨されていますが、周りに着けていない人(外している人)が2、3人いるようだとその雰囲気に流されマスクを外すといった具合です。
さて、本来、落ちているゴミを拾うのは、道徳的な意味としてやるべきこと(ゴミはゴミ箱へ)ですが、賞罰教育の考えに基づけば、「褒めてもらいたい」という目的が先にあってゴミを拾っていると考えることができます。
そうした「褒めてもらいたいから何々する」という目的が先にある状態だと、逆に「誰からも褒めてもらえない」場合には、憤ったり、二度とゴミ拾いなんてしないと言ったことになる可能性もある訳です。
「承認欲求」それ自体が自己中心的な考え方である
二つ目は、「承認欲求」それ自体が自己への執着に囚われた考え方であることが指摘されています。
承認欲求の内実(心理的背景)を本書では以下のように述べています。
他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか。
引用:「嫌われる勇気」より
つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか。
こうした承認欲求に囚われている人は他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていない。
他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち自己中心的なのです。
同時に、他者からの評価に怯えている人もまた、わたしにしか関心がないという意味では自己中心的。
あなたは他者に良く思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他ならない。
自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えています。
こうした人たちにとって、他者とは「わたしのために何かをしてくれる人」だと思っています。当然、他者と接するときにも、「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ばかり考える訳です。
ですが、他者はあなたの期待を満たすために生きているのではないのですから、そうした期待が満たされなかったとき、自己中心的な人は他者に対して失望し、侮辱を受けたと感じ、そして憤慨するといった事態を招く恐れもあります。
また、本書で青年は、承認欲求の「一般論」を以下のように言及しています。
われわれは(本能的に)承認欲求を持っている。
他者から承認されてこそ、われわれは「自分には価値があるのだ」と実感することができる。
そして、他者からの承認を通じて、劣等感を払拭することができる。しかし、他者から承認を受けるためには、まずは自らが他者を承認しなければならない。
引用:「嫌われる勇気」より
他者を認め、異なる価値観を認めるからこそ、自らのことも承認してもらえる。
そうした相互の承認関係によって、われわれは社会を築き上げている。
この考えに対して、哲人(哲学者)は、他者から承認してもらおうとするとき、ほぼ全ての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段としてしまう点を危惧しています。
我々は他者の期待を満たすために生きている訳ではありません。
それに他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。承認されることを願うあまり、他者がおも「こんな人であってほしい」とい期待をなぞって生きていくことにもなります。
承認欲求を通じて得られる「貢献感」には自由がない
三つ目は、承認欲求を通じて得られた「貢献感」への否定です。
「見出し:幸福とは貢献感」で、自分が誰かの役に立っていると感じれば、「幸福になれる」と紹介しています。
人が承認を求める理由は、「人は自分を好きになりたい。自分には価値があるのだと思いたい」からです。そのためにも「わたしは誰かの役に立っている」という貢献感がほしい訳です。
そして、貢献感を得るための手近な手段として、「他者からの承認(承認欲求)」を求めています。
「貢献感」を得るための手段が、「他者から承認されること」になってしまうと、結局他者の望み通りの人生を歩まざるを得ません。
承認欲求を通じて得られた貢献感には自由がない(むしろ他者の期待を満たすために動いている)。
すなわち、承認欲求に囚われている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献もできていないと状態であると言えます。
自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか。
引用:ユダヤ教の教え
褒めもしないし、叱ることもしない。その代わり感謝の言葉を用いる(横の関係)
「褒めもしないし、叱ることもしない」というのがアドラー心理学の考え方です。
褒めたり、叱るというのは、結局のところ「飴を使うか、鞭を使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は「操作」です。
例えば「褒める」という行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれていて、それは無意識のうちに上下関係を作り、自分よりも低く見ることに繋がります。
一方、人は褒められることによって「自分には能力がない」という信念を形成していきます。
もし、褒めてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは「縦の関係」に従属し「自分には能力がない」と認めているのと同じです。
そして「褒めてもらうこと」が目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことに繋がります。
なぜなら、褒められるということは、他者から「良い」と評価を受けている訳ですが、その行為が「良い」のか「悪い」のかを決めるのは他者の物差し(他者次第)です。
もしも褒めてもらうことを望むのなら、他者の物差しに合わせ、自らの自由にブレーキをかけるしかないからです。
一番大切なのは「他者を評価しない」ということです。
(「評価」という言葉自体が縦の関係を象徴する言葉)
褒める・叱るではなく「ありがとう」という評価ではない「感謝の言葉」を用いることを本書では推奨しています。
なぜなら、人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。
そして、他者貢献によって「自分が共同体にとって有益だ」と思えれば、「自分には価値がある」と思え、その人はありのままの自分を受け入れ、人生のタスク(仕事・交友・愛)に立ち向かう勇気を持てる訳です。
まとめ
さて、冒頭で述べたように「アドラー心理学は常識へのアンチテーゼである」という言葉通り、その内容の衝撃さ故に、受け入れられないという人も多くいるでしょう。しかし、同心理学から言えばどう受け取るかは本人の自由(課題)です。
仮に考えに賛同したとしても、同心理学を実践するのは「生きてきた年数の半分が必要」と言われるほど難しくもあります。
ですが、「課題の分離」に始まり、「他者貢献・共同体感覚」の領域まで実践できれば、対人関係が本当に楽になると思います。
(1) すべての悩みは「対人関係」の悩み
(2) 原因論ではなく「目的論」で考える
(3) 人は変わらないのではなく、自分自身が「変わらない」と決心している
(4) 「変わる」には過去でも環境でも能力でもなく、「勇気」が必要
(5) 「いま、ここ」を生きるために自らの意味づけを変えなければならない
(6) アドラー心理学における目標(人間の行動面と心理面のあり方)
(7) 人生のタスク(課題)と人生の嘘
(8) 対人関係の出発点は「課題の分離」
(9) 対人関係のゴールは「共同体感覚」
(10) 幸福とは「貢献感」である
(11) 人生は「連続する刹那(点)」
(12) 人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないこと
堀江貴文 氏(ホリエモン)も共感?
最後に、下記の関連記事の中で、堀江貴文 氏(ホリエモン)の書籍「時間革命」の内容はアドラー心理学を想起させると書きましたが、「嫌われる勇気」を読んで改めて類似する部分が多いなと感じました。
事実、ホリエモンもアドラー心理学の考えに共感し実践していると言われています。
「時間革命」の中でも「いま、ここ」の大切さが説かれています。気になる方は、「時間革命」の方も読んでみて下さい。
価格:1,430円 |
おまけ:青年の口調(言葉遣い)にも意味がある?
本書を読み始めると、気になることの一つに哲人(哲学者)と対話する「青年の言葉遣い」があると思います。
対話する相手(哲人・哲学者)が目上にも関わらず青年の言葉遣いが横暴だし、しかも相手を論破してやろうと血気盛んで攻撃的なので、読む人によっては「なんだこの言葉遣いは!」と癇に障る方もいると思います(実際、私も思いました)。
ただ、この言葉遣いも著者の作戦の一つなのだと思います。
アドラー心理学では「課題の分離」が対人関係の入り口となりますが、哲人に対して攻撃的な感情や言葉遣いを変えるかどうかはあくまで青年側にあるものだと考え、哲人は相手の態度や言葉遣いに対して苦言を呈することは一度もありませんでした。むしろ、意識の上での対等や主張すべきことは堂々と主張すべきだという横の関係が大事(同じではないけれど対等)を実践しています。
また、本書で周りの人間(他者)を「敵」ではなく「仲間」と思えるようになることが大切だと述べられていますが、本書冒頭から哲人に対して(何故か「これでもか!」と言うほど)敵対心を露にしていた青年が、対話を通じてアドラー心理学に触れることで次第に「友・仲間」として認識を変えていく様子もまたアドラー心理学を実践することで起こる変化の一例として表現しているようにも思えます。
つまり、本書全部を余すことなく使ってアドラー心理学を説いている一冊とも言えそうです。