【書評レビュー・鍋田恭孝】子供のまま中年化する若者たち-根拠なき万能感、努力せず運任せの若者
今回の「子供のまま中年化する若者たち」という本ですが、累計3万部近く売れた本らしいので、ベストセラー作品とは言わないまでも大ヒット作品に分類される書籍です。
書籍業界では大ヒット商品と言えるものでも、私自身、別の書籍の中で紹介されていなければ、手に取ることはない類の本だったかもしれません。
さて、人材育成の分野では、毎年、「今年の新入社員のタイプ」という標語が発表されています。これは新入社員が育った時代背景や流行などを踏まえて新入社員の特徴を画一的にまとめたものです。ちなみに、「2019年:呼びかけ次第のAIスピーカー型」、「2016年:ドローン型」、「2015年:消せるボールペン型」などがあります。
せっかくなので、自分の年代がどんなものだったのか確認してみるのも良いかもしれません。
当然、一人一人個性があるので一括りにすることは出来ませんが、本書「子供のまま中年化する若者たち」では、調査報告や臨床(思春期外来やうつ病専門外来での経験)、学生たちの言動を通して、近年(と言っても発刊が2015年なので少々古いですが…)の若者の傾向や特徴を医学博士・臨床心理士の鍋田恭孝(なべた・やすたか)氏がまとめたものです。
今の若者にはどのような特徴があるのか?
前置きが長くなりましたが、本書の内容に移ります。
まず、本書で紹介されている「調査報告(統計データ)」「臨床(思春期外来等を通じて見えてくる若者の悩み方の特徴)」「学生たちの言動」から若者たちにどのような特徴があるののかを見ていきたい思います。
(なお、以下の項目は、書籍に載せてあるものの一部抜粋となります)
調査報告
・体力の低下と活動量の低下→動物としての基本的なエネルギーの低下
一部抜粋/引用:子供のまま中年化する若者たち(p.191)
・【目次・見出し2】→統合能力が低下している可能性がある
(統合能力の低下により、プランニングが下手になり将来への展望を持たなくなり場当たり的にその時を生きる傾向が出る)
・【目次・見出し3】→将来のために努力せず、流されながら生きている
・【目次・見出し4】→ものを選ぶ力、語る力が低下
・変わろうとする意欲が乏しくなった
・規範意識が薄れ、枠組みがなくなっている
・何をするにも遊び感覚だ
・反抗期がなくなったばかりではなく親との関係はずっと良い状態が続く
・群れなくなった。遊びの時だけに集まる集団(関係性が乏しい)
臨床(思春期外来等を通じて見えてくる若者の悩み方の特徴)
・主体性の低下、エネルギーの低下。
一部抜粋/引用:子供のまま中年化する若者たち(p.192)
・誰かが何かをしてくれるのを待っている。
・語る力が落ちている。反射的なコミュニケーションが多く、コミュニケーション能力そのものが低下。
・社会になんとしても参入しなくてはならないという気持ちが希薄になった。
・理想像との乖離に悩む葛藤がなくなった。
・社会の求める理想像ではなく、身近な友人からの承認を求める。
・【目次・見出し5】→子供ものままの自己愛を引きずっている(根拠なき万能感)。自分が受けることが大切になっている、それが出来ないと傷つく。
・変わろう、変えようという意欲がなくなった。
・【目次・見出し6】→困ると容易に引きこもって、親の世話を受けながら動かない培養植物的になるか、親との関係が希薄だと、クラゲのように、その場その場に合わせて漂うように生きるようになる。
学生たちの言動
・動きが鈍くなっている。動きを最小限にしている。
引用:子供のまま中年化する若者たち(p.193)
・安全第一に生きる。自分の領域から出ようとしない。人との関わりは最小限にする。なるべく面倒なことには関わらない。リスクのあることは極力避ける。
・重い責任は背負いたくない。
・決まったこと、言われたことだけをする。しかし、それなりに真面目にやる
・全てを「それなり」にこなす。向上心は持たない。理想像を追うこともない
・見栄を張らない。
・必要なものだけしか買わない。一方でコストパフォーマンスはしっかり考える。
・ワクワクよりもゆったりできることを望む。居心地の良さが最も大切。
・誘われればそれなりに付き合うが、のめり込まない。羽目を外さない。熱中することもない。
・異性を追いかけるよりも身近なご近所様が大切。疲れない付き合いだけに限定する。
・自分の生き方は変えられないし、変えたくないと思っている。
・何とか、与えられたシステムから、落ちこぼれないようには努め、今のレベルは維持したいと考える。
・何より家族が大切。
・全般的に漠然たる不安を抱えている。
さて、これらの項目をご覧になってどのように感じましたか?
「何となく当てはまるな」と思う項目もあれば「いやいや、そうではない」と否定したくなる項目もあると思います。
著者は、こうした特徴から「若者たちには青春を思わせるような時期がなく、出世を諦め趣味に生き、守りに入っている様が中年を思わせる」と感じ、「子供のまま中年化する若者たち」というタイトルをつけている訳です。
さて、ここからは、私の中でいくつか印象に残った項目を見ていきたいと思います。
遠近法が使えない子どもたち
本書では、1981年と1997年に小学6年生の子どもたちに一枚の紙に「家、木、人」を描いて欲しいと指示した絵が幾つか紹介されています。
絵の引用元は「著書:殺意をえがく子供たち-大人への警告(学陽書房)、著者:三沢直子氏」のもの。
(著作権の関係もあり、絵を直接紹介することはできないので、「大人になれない・世界一寂しい・自尊心の低い日本人の子どもたち」という題目で行われたシンポジウム(発表者:田澤雄作氏)のP.584の図5、図6で紹介されている絵を参考にして下さい。ただし、1997年ではなく、1998年の絵が載せられています。)
実際に本書か、前述したシンポジウムに紹介されている絵を見て頂くと分かりますが、「1981年」の子供たちの絵は、素人目から見ても、物語性があり、人間と自然との関わりがあり、家もしっかり描かれています。
一方で「1997年(上記シンポジウムの内容では1998年)」の絵は、物語性も、自然との共生もなく、全体のバランスが悪くなっており、立体感が希薄で平面的な絵になっているのが特徴です。個人的には小学6年生にもなって、まだこういう絵が書けてしまうのかが疑問に思います。
引用元である「著書:殺意をえがく子供たち-大人への警告(学陽書房)」の著者 三沢直子氏の曰く、1997年(或いは1998年)の子ども絵では、人間が記号化(棒人間)されていることから、「対人感覚の希薄化」、家が微かにしか描かれていないことから、「存在感のない家」の問題が、そして絵全体からは「現実感の喪失」が変化として読み取れ、何よりも「統合性のなさ」が9歳レベルに留まっていると言えるとのこと。
物事の把握が平面的、断片的になり、物語性や統合能力の低下の現れ
もう少し具体的に言えば、小学6年生になると脳の変化に伴い、1981年の絵のように「遠近法」を用いることが出来る様になるのですが、1997年(或いは1998年)においては、「遠近法」が使えていないということが分かります。
そして、遠近法が使えないということはそれと関連する「統合能力」が9歳レベルに留まっていて、「遠近法」や「統合能力」は将来を見通す時間感覚とも関連し、他者の様々な側面を多面的に認知できる能力にも関連するもののようです。
こうした能力が低下しているとは、時間感覚を失い、断片的に問題や他者を認識する可能性が高いということを示しています。
努力せず、運任せな若者たち
本書の中で面白いデータが紹介されています。
それは、1993年から1995年にかけて中学生・高校生を対象に質問を行い、その結果を国際比較をしたものです(データの出典は「日本の若者の弱点(毎日新聞社、著:中里至正、松井洋)」)。
調査の対象となった国は日本の他、アメリカ、中国、韓国、トルコ、ポーランドなどがあります。
そして、特徴的なのが以下の2つの質問です。
以下の質問に対して「全くそう思う」と答えた割合
・「人生は運に左右される」・・・27.6% 調査国の中で一番高い
・「将来のために努力する」・・・18.7% 調査国の中で一番低い(最低値)
このデータが全てではないとは言え、他国に比べ日本の若者が、将来のために努力をせず、運任せで、受け身の人生を生きていることが分かるのではないでしょうか?もはや、受け身というより、「諦めの人生」と言えそうです。
選べない、語れない若者たち
いまやモノばかりでなく、情報も溢れていますので、買い物に行っても選べない、或いは選びたくない若者が多いそうです。
実際、我々でも、PCや携帯電話などを買い換える際には、お店に並ぶ多種多彩な商品と値段に翻弄され、中々その場で即決するには至らないぐらい、物が溢れています。
今では「情報疲労症候群」という病まで存在します。
この情報疲労症候群とは、過剰な情報を吸収し、処理しようとすることにより心理的なストレスが判断力の麻痺や記憶障害、自己に対する不確かさ、不安、抑うつなどの症状となって現れる病気だそうです。
沢山のモノや情報を選択し処理するには自分では選び切れない場合、親や大人の用意したシステムに仕方なく頼ることになります。自分で決めきれず、人に頼ると次第にそのシステムに身を任すことに慣れていきます。
そうした場合、そこには自らの意思という名の自己選択はありません。
とりあえず、良さそうなものを選ぶことになるが、それが特別なものとも思っておらず、選ぶこと、手にすることに伴う喜びが鈍くなったり、選ぶことに疲れてしまうことにも繋がります。
このことはモノだけにとどまらず、大学や職業など自分の将来を決める上で大切な選択を「何となくで選んだり、とりあえずで選んでしまうこと」にも繋がってしまいかねません。
「選べない」に次いで、もう一つ。
「語れない」という特徴も見逃せません。
「別に」「普通」「何となく」「分からない」…。
こうした言葉は今では珍しくありませんが、自分の内なる想いや感じる感情の原因を語れない若者がいます。
【見出し「遠近法が使えない子どもたち」】で触れた通り、物語性を語る力が低下しているとも言えます。
例えば、イライラする、不安と言った感情に対して、「何故、どうして、何が?」と言ったことを聞かれても言葉に出来ないのです。
これは母親が「どうしたの?」と聞いても答えられない、幼児のコミュニケーションに近いものがあります。
加えて、IT機器やSNSの発達など時代的な背景もありますが、「反射的な語り」や「主観的で一方的な語り」をする子が増えているのも特徴です。
「反射的な語り」とは、相手からの働きかけに対して、短く最低限の反射的な言葉で返すコミュニケーションのことです。
現代のコミュニケーション・スキルで好まれるものは、「メッセージ内容の軽さと短さ、リプライの即時性、頻繁かつ円滑なやり取り、笑いの要素、顔文字などのメタメッセージの多用、キャラの明確さなど(斎藤環氏の言葉)」だそうです。こうした要素を備えたものが、すなわちメール、ツイッター、 LINEなどSNSでやり取りされるコミュニケーションです。これらは総じてこの反射的コミュニケーションに位置すると考えられます。
その他にも、アスペルガー障害者に見られるような、相互性のないコミュニケーションというものもあります。それは言葉に含まれる多様性を理解できない、言葉通りの意味しか理解しない、あるいは想像できないコミュニケーションを言います。
「ぴえん」「エモい」「草」など若い子の間ではより一層、短文(略語)が好まれています。ある程度国語力(日本語力)が備わっている上で使っているならまだしも、おそらく最初からこうした言葉しか使ってないので、後々社会に出たら苦労しそうです。会社に入り、社内外のメールや文章を作成するときどうするんだろうと不安になります。
根拠なき万能感
実は、私が本書の中で一番関心があったのが「根拠なき万能感」というキーワードです。
その関心は、若者と接している時の経験から来るものでした。
若者(新入社員等も含む)と接していると「その自信は一体どこから来ているのだろう…」と思ってしまう発言を聞くことが多々ありました。
自信を持つこと自体悪いことではないですし、自信が「ない」よりは「あった方が良い」ですが、その根拠(能力、知識、スキル、実績)は?と思わず尋ねてみたくなります。
まぁ、流石にそれを聞くとこちらが大人気ないので、「そうなんですね〜。すごいですね〜」と大抵の場合は流しますが…。
さて、この「根拠なき万能感」について、本書の「ディスチミア親和型うつ病(「ディスチミア」とは軽症うつ病)」の話の中で、以下のような記述があります。
それなりに大切に育てられ、それまでの課題(*)は軽やかにこなせ、漠然たる自己愛を抱き、どこかで、すぐにでも輝かしく活躍できると思っており、うまくいかないのは他者のせい、仕事が合わないせいであり、叱る人は敵であり、困ると、だたただ、うつ状態に陥ってしまうという対応しかできなのが特徴である
引用:子どものまま中年化する若者たち(p.106)
【*「課題」とは、親や大人に与えられた学校教育やシステムと考えて下さい】
また、「自分は有能で評価に値する人間だという思い込み」というテーマの中では、
家庭でも学校でも、至れり尽くせりで育てられる。
引用:子どものまま中年化する若者たち(p.167)
大学まではずっと「お客さん」だ。
そのため、社会に出ても自己愛を引きずることが多い。
そして、何の根拠もない幼児的な万能感が残りやすい。大人が準備したものをそれなりにクリアして褒めてもらってきたことで、自分を有能な人間だと思い、大切にされ評価されるに値する人間だと思い込んでしまう。
そのため、仕事という生存競争の中で、思うようにいかないと、クリアしやすい課題を与えない上司や会社や社会が意地悪をしているように思ってしまう。被害者意識を抱く。そして、引きこもる。あるいは、秋葉原の事件のような存在証明のための犯罪を起こす。
といったことが述べられています。
これらで使っている「自己愛」とは、「強すぎる自己への執着や陶酔によって自分が特別で偉大でなければならないと思い込む考え方(自己愛性パーソナリティ障害より)」と考えてもらうとイメージしやすいと思います。
但し、失敗や苦難が待ち受けていようとも、なんとか自分の理想を追い求めるような強い自己愛というよりは、「もろい自己愛」という表現の方が適切でしょう。
最近の若者は、子ども時代から用意されたシステムの中で、受け身的に生き続けることになります。それは、「子どものまま大人になること」を意味しています。
著者曰く、かつては「兄弟姉妹たちにもまれる時代」、「学童期の子ども集団の中でもまれる時代」「思春期・青年期にほぼ大人に近い激しい戦いを経験する時代」を経て、生存競争の渦巻く社会に出て行ったと考えられ、この間に、子どもたちは否応なく自分のリアルな姿に対面し、幻滅もするが、それらを生き抜くことで、本当のプライドを育てられたと言います。
しかし、今は子どもの状態から突然、大人の世界に投げ込まれているため、自信のない、根拠のない、子どものままの万能感を抱きやすい訳です。
その結果、「傷つきやすく」なり、自分はナンバーワンではないがオンリーワンだ、とでも言いたい小さなプライドを抱えて他者と出会う、しかし、そこで他者とどのように付き合えば良いかも分からず、自分のプライドとどう向き合えば良いかも分からず混乱しています。
つまり、大人が用意したシステムの中で不自由なく過ごしているため、挫折や失敗、自分への葛藤、我慢・理不尽さといったを経験しないまま大人になっているので、身体は大人でも心が子供のままであるとも言えます。
またそうした問題や課題に直面してもそれを乗り越え自分の糧にすることが出来ないのです。
自己愛性パーソナリティ障害とは…
看護roo(カンゴルー)用語辞典によれば、以下のうち5つ以上に該当する場合は、自己愛性パーソナリティ障害に該当するそうです。
自己愛性パーソナリティ障害の診断基準(DSM-5)
- 自分が何よりも重要であるという誇大な感覚がある
(実際の業績以上の評価を求める、実績を誇張する) - 限界のない成功、才能、美貌、愛の空想にとらわれている
- 自分は特別な存在で、自分の価値は一部の優れた人間にしか理解できず、また優れた人間と関わるべきだと信じて疑わない。
- 実績以上に褒められることを強く欲する。
- 権利意識が強く、自分には特別な権利があって周囲の人間は当然のように自分のために行動すると期待する。
- 他人を自分自身の成功や利益のために不当に利用する。
- 他人の気持ちや要求を理解しない。そもそも認識しようとしない。
- しばしば他人に嫉妬する。
- 倣慢で偉そうな態度をとる。
うつ病の背景
近年のうつ病事情にも触れていましたので、引用部分だけですが載せておきます。
わが国においては、大学までは学生は大切にされる。
引用:子どものまま中年化する若者たち(p.109)
しかし、会社は何といっても生存競争の中にある。利害もぶつかるし、枠組みも厳しい。つまり、規範・役割が厳しい。ここで緩い関係の中で自分のスタイルで過ごしてきた者やひたすら、周囲に合わせて来た者が、壁にぶち当たり途方にくれ、うつ病ないし、うつ病類似の状態に陥るというのが、最近の若者のうつ病事情である。
生き方が「植物化」と「クラゲ化」の二極化
若者の不適応に陥るパターンが、「培養植物化」と「クラゲ化」に二極化していると述べられています。
「植物化」とは、自分からは動かない。自分の小さな世界をテリトリーとして、与えられる栄養素や水を取り入れて生きており、外からの刺激が来ても、多少の反応はするが動かず、自分のスタイルを維持し変化しようとしないタイプを言います。
最近の引きこもりや、対人関係を避けるような悩みのタイプの子が該当し、周囲の規範や役割意識を忌避し、職場を放棄して、自分を守ろうとする現代型うつ病も含まれます。また、臨床的に問題とならない程度であればいわゆる「おたく」も該当します。
一方、「クラゲ化」とは、植物化の反対で社会との関係がうまくいかないと、外界の刺激や枠組みに自分を合わせて、何とかこなそうとするが、合わせすぎてグラグラになっている状態です。
例えば、他者に依存しながら生きている子や、その日その日を漂うように生きている子などを指します。もっと具体的に言えば、援助交際をして適当に楽しんでいる女の子たちや自らフリーターの立場を選ぶ若者たち、あるいはキャラを作って明るく立ち回っている大学生や、周囲に配慮しすぎて疲れきるようなタイプ、就職して言われるままに働いてうつ状態に陥る若者も含まれます。
また、その中間層も存在します。
何とか適応している若者は、一方で培養植物のように自ら動くこともなく、自ら何かを求めることもなく、親からの栄養補給に頼り、一方でクラゲのように様々なシステムに身を任せつつ、友人とはキャラで付き合い、承認ゲームに巻き込まれながら、漂う生き方をして何とかバランスを取っています。
そして、思春期や青年期に入り、そのような関係に疲れると、どちらか(植物化・クラゲ化)の傾向が強まっていくという訳です。
私が少しドキッとしたのは、「キャラを作って明るく立ち回っている」という部分です。皆さんも、少し心当たりがありませんか?
社会人となり働きだすようになれば、それなりに同級生の友達や同僚が出来ると思います。
小学校、高校などどの年代であっても、ある程度は自分の立ち位置は同じですが、微妙に自分自身のキャラが異なる時があります(良い意味で自分の素が出せているのかもしれませんが…)。
このように相手との関係性によって自分の本心を隠してキャラを演じるというのは誰しもあるのではないでしょうか?
感想・まとめ
本書では、「昔の若者の方がエネルギーに溢れ、夢や欲があり、主体性を持っていた」と述べられています。
そうした背景には様々な要因があったと考えられます。
昔は「兄弟姉妹たちにもまれる時代」「学童期の子ども集団の中でもまれる時代」「思春期・青年期にほぼ大人に近い激しい戦いを経験する時代」など成長期ごとに身体的にも精神的にも大人に成長するための土壌があり、そして大人になり「社会という理不尽さが残る荒波」の中に飛び込んでいくという成長プロセスが存在していました。
例えば、ちびまる子ちゃんのお家のように昔は親子3世代で住んでおり、「おじいちゃん、おばあちゃん、両親、兄弟姉妹」といった大家族の中で過ごし、学童期には「ご近所の上級生、同級生、下級生と遊ぶこと」で自然とコミュニケーション力が磨かれ、同時に様々な世代、異性とも接するため、「この人にはこういう風に接しないとダメだ」といった多様性への適用や、多くの人と接することで主体性も身につきます。
そして、経済的・時間的にも親がずっと子供の面倒を見てあげることが出来ず、基本的に子供同士で遊び、遊びの中で時に冒険やスリリングなことをして、多少怪我をしたりしながら、危険を察知したり、避けたりする術を学んでいました。
そんな子供同士のちょっとした冒険を通じて、連帯感や仲間意識が出来き人間的にも成長していったと思います。もちろん、時には大人に怒られながら…規範やルールも学びます。
しかし、こうした良さが、現在の核家族化や一人っ子、ご近所付き合いの減少などにより失われています。
また、兄弟姉妹の数が減り、家事への負担が減ったことで、子供に目をかける時間が増え、大人が何でも世話をやくようになっています。しかも、友達感覚の親も増え、甘やかし叱れない。親自身も道徳・規範を身につけられていないため、子供をきちんと教育できていないケースも考えられます。
説明したのはほんの一部ですが、これ以外にも家族、兄弟、友達、生活、教育、モノ・情報、様々な要因から考えることで、著者のいう「子供のまま中年化する若者たち」という主張に同意できる部分も確かにあります。
確かに今の若者たちは、昔とは違うのでしょう。
しかし、「進化の反対は退化ではなく、動かずただ立ち止まっている現状維持」です。今の若者たちが、昔と比べ違うということはそれはそれで良いことです。
著者自身も、今の若者たちは「優しく繊細で素直で裏表がない。何より「えげつさ」がない。こぢんまりと身の丈にあった生き方の中でそれなりの幸せを求めようとしている良い子たちだ」と述べています。
そもそも、どんな時代も良し悪しがあり、得たモノ失ったモノが存在しています。昔が良かったと懐かしみ「今の若者たちは昔に比べエネルギーが低下し、夢や欲がなくてつまらん」と思うのではなく、自分たち(若者より上の世代の方)とは違うということを認識し、またその理由は本書で述べられているような背景から来ているのかもしれないと受け止め、それを人材育成や指導に生かすべきが真の姿だと思います。
根拠のない話?でも、他の書籍や講演でも似たような話が出ている
本書に対して、その根拠は?データは?と言う反論もあると思います。
また、人によっては、結果結論ありきで、その結論に合致するような内容を並べていると言った印象を受ける方もいるかもしれません(最近の視聴率・反響重視のマスコミ報道と同様)。
ですが、世の中、全てにおいて証拠やデータを求めることが難しい部分もありますし、いわゆる感情論的なものも存在します。
従って、本書に共感を覚える方もいれば、相容れない方もいると思いますが、相田みつを氏の「みんな違ってみんないい」で結構なのではないでしょうか?
私自身は、結構共感できる部分がありましたので、一つの視点・考え方として心に留めておきたいなと思っています。
というのも、以前書評レビューとして紹介した中でも似たようなことが述べられています。
「友だち幻想」・・・コミュニケーション阻害語との関係性
例えば、「友だち幻想」では、コミュニケーション阻害語の話があります。
これは「うざい」「ムカつく」という言葉は自分の感情をすぐに表現できるという意味では便利ですが、「どうした理由がってうざいのか、ムカつく」のかといった説明が省かれ、一方的に打ち切られるため、双方向のコミュニケーションが成り立たず、コミュニケーションの低下につながると言えます。
本書でも、言葉遣いに関して「見出し:選べない、語れない若者たち」の中で触れた通り、自分の中にある気持ちが語れず物語性のない話し方になっていることが指摘がなされています。また、メールやSNSを中心とした「だよねー、いいねー」といった「反射的な言葉で返すコミュニケーション」が便利で多用されるため、結果として相互コミュニケーションの低下に繋がっていると述べられています。
働く君に贈る25の言葉・・・欲を持ちなさい、欲があることで成長する
「働く君に贈る25の言葉」の中で、「欲を持ちなさい」という提言があります。これは「出世したい」「お金持ちになりたい」「仕事をバリバリこなして出来る奴と思われたい」といった欲を持つことで、辛い時に何くそと立ち直る原動力になると述べられています。
一方、本書では、若者は変えよう、変わろうとする意欲が薄れ、その代わり、安定を求め、リスクを避ける。また、責任を負いたくない、必要なモノ以外欲しがらない、といった特徴が述べられています。
ある意味、「欲」とは現状から変わることも意味します。
欲があることで壁にぶつかり、自分を磨き、成長することに繋がるのですが、
今の若者は「変わりたがらないし、欲もない」ので、成長よりも諦めの方(リスクを避けたり、動かない、最悪の場合はうつ病になる)に傾いてしまいがちなのかもしれません。
ケーキの切れない非行少年たち・・・計画を立て努力することが出来ない
「ケーキの切れない非行少年たち」の中では認知機能の大切さが言及されていました。
「認知機能」とは、記憶、知覚、注意、言語理解、判断、推論と言ったいくつかの要素が含まれた知的機能のこと。
引用:ケーキの切れない非行少年たち(P.49)
人間には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を通じて外部環境から情報を得ています。そして、得られた情報を整理し、それをもとに計画を立て、実行し、様々な結果を作り出して行く過程で必要な能力が認知機能です。
つまり、認知機能は、受動・能動を問わず、全ての行動の基盤でもあり、教育・支援を受ける土台でもある。
計画を立て、実行し様々な結果を作り出していく過程で必要な能力が認知機能です。この認知機能が弱いと、あと先のことを考えられないため、計画が立てられず将来に向かって努力することが出来ず、その場の思いつきで行動してしまうと言われています。
そもそも本記事見出し「調査報告」の中にもある通り、データ的にも日本の若者は、既に将来のために計画を立て努力することはせずに、運に任せな傾向が見て取れます。また、本書でも「いきなり型」「爆発型」といった犯罪傾向が増えており、最近では「思い付き型」「遊び感覚型」の犯罪へと移行しつつあると述べられています。
本記事見出しの「遠近法が使えない子どもたち」で述べた一枚の紙に「家、木、人」を描くという調査では、遠近法や統合能力の低下から、時間感覚を失い断片的に物事を認識する可能性が高いということは、将来に展望を持たないということであり、「キレやすさ」にも繋がっていると言われています。
このように一冊だけではなく、様々な本を関連させ複合的に見ていくことで、共通解を見出せることもあります。
ただし、本に書いてあることが全て正しいと思わず、頭の片隅で疑いの心を持つことで、視野狭窄に陥らないことも大切です。
落合博満氏の講演・・・指示待ち人間大いに結構
落合博満氏の講演会の中に、指示がないと動けない、いわゆる「指示待ち人間」が多いという話がありました。
「指示待ち人間大いに結構」というのが落合氏の持論です。
要は、指示があれば動く訳です。しかし、今現在は指示がないと動けないというレベルにあるのだから、指示がなくても動けるようにこれからきちんと育てれば良いということです。
本書の冒頭で面白いストーリーが紹介されています。
それは、著者が学生の前で授業に使う資料を整理していたときに、生徒の「誰かが手伝いましょうか?」と言い出すと期待していたそうです。
しかも、生徒たちはカウンセラーを目指している学生たちで、著者が「カウンセラーになろうとしているのなら、人の困っていることに対して率先して関わろうとする姿勢が必要だ」と叱ったそうです。
そうしたところ返ってきた言葉が、
「先生、それは無理です。私たちは小さい頃からあーしろ、こーしろと言われて、それに沿って生きるように育てられました。それなのに、突然気を利かせろと言われても無理なんです。指示してくれなければ動けません」というものだったそうです。結構、吃驚ですね。しかも、自分自信のせいではなく、他のせい(育て方)にあるという意識にも驚きます。
このように自分で考え動くことが出来ず、主体性がない指示待ち人間が存在します。ただ、落合氏の持論や本書の中やでも触れられているように「言われて指示されれば、しっかりやれる」ので、それだけを持って「優秀じゃない、使えない」という判断もしづらい難しさもありますので、こちら側にも根気よく育て、指導するということも必要になります。
おまけ:「レールの敷かれた上をただ走ってきた人生」ホリエモンのスピーチ(近畿大学・卒業式)
本書の中で「大人が用意したシステム」の中で過ごしている、という表現が何度も出てきます。この表現を見て思い出したのが、堀江貴文氏の「近畿大学卒業式でのスピーチ」です。
このスピーチは「ついに、これまで生まれてからの20数年間レールの敷かれた上をただ走ってきた人生をここで終えることになります」という辛辣な言葉から始まっていることでも有名です(笑)。
(スピーチの詳細は触れませんが、興味がある方は是非、下のYouTubeでご覧になられて下さい)
社会に出れば、レールのない所を走ることになります。しかも昔のように定年退職まで勤め上げるという時代でもなく、定年まで会社が存在する保証もありません。だからこそ、自分自身の足で立って生きていく強さが必要です。コロナ禍の現在ではより一層、自律した大人の姿が求められています。
しかし、若者の多くが生まれて約半世紀近く敷かれたレールの上をただ走ってきたわけですから、社会に出て熾烈な競争の中で生きていくことは大変でしょう。
社会にある理不尽さや厳しさ、役割や規範、といったものを体験することもなく、社会に飛び出ていくので、まさに未知の世界です。
ですが、そうした困難を乗り越える力も身に付けていない可能性すらあります。だから、悩みを乗り越えられず、軽症型のうつ病のようなものが流行っているのかもしれません。