【書評レビュー・秀才の嫉妬】天才を殺す凡人-職場の人間関係に悩む全ての人へ-まとめ感想
折角のクリスマス・イブに、「天才」や「凡人」とか「殺す」など、クリスマスの欠片もない記事を投稿しても良いのか迷ったのですが。兎にも角にも、記事が完成したのでアップしておきます。
さて、「天才を殺す凡人」と言う少々刺激的で人目を引くタイトルなので、書店の売り場でふと見かけたことがある方もいると思います。
本書は、著者である北野唯我 氏が「凡人が、天才を殺すことがある理由。」というタイトルで書いたブログを書籍化したものです。
そのブログは公開後、瞬く間に30万PVを達成するなど、多くの注目を集めると同時に多くの方の共感を呼びました。
サブタイトルにあるように、職場内での人間関係は複雑ですから、「どうしてあの人みたいに出来ないんだろう」「なぜ、Aさんはあんな言動をするのだろう」と言った自分には理解できないことや悩みを抱え方もいるかと思います。
ひょっとしたら、本書で述べられる「天才、秀才、凡人」の特徴や三者の橋渡しするアンバサダー(エリートスーパーマン、最強の実行者、悩める天才)の存在・特徴を理解することで、今まで職場で感じていたモヤモヤを解決する手助けになるかもしれません。
まとめ
悩みの原因は「自分のコントロールできないこと」をコントロールしようとするから
心当たりのある方もいると思います。
コントロールできないものの代表例が「他人」です。
職場の同僚、部下、上司などに対して「どうして言っても分からないのか」「なぜやってくれない?」と思うことも多々あると思います。
ですが、「他人を自分の思うようにコントロールすることは出来ない」という原理原則は、血の繋がっている家族(例えば子供)であっても同じですし、ましてやたまたま同じ職場で働いている程度の「他人」であれば尚更でしょう。
自らのカード(才能)を知り、カードで勝負し続けることが過去最高の自分へと繋がる
本書では人間が一番コントロールしたがるけれど、一番悩みのもとになるものとして、「自分の才能」だと述べています。(ちなみに、前の見出しで触れた「他人」は二番目)
「自分の才能」をコントロールしたがるというのは、例えば、もっとカッコ良かったら、もっと頭が良かったら、もっと性格が良かったら、もっと背丈があったら…と言ったものです。
要は無いものねだりです。
人間誰しも多かれ少なかれそうした願望はありますが、特に自分に自信が持てず、自己評価の低い方に多くみられる傾向かもしれません。
本書ではそんな自分の才能に関して、次のように述べています。
「大切なことは自分に配られたカード(才能)が何かを知り、そのカードの使い方を知ること。自分に配られたカードで勝負して負けることも沢山あるが、カードを出し続けることによってカードは磨かれ、過去最高の自分に出会える」。
一方で、「(本当はAなのに)Bの才能があるかもしれない」「あのカードがあれば」と言い訳したり、無い物ねだりをしている状態は、自分に与えられたカードを直視せず勝負していない人生です。そんな可能性に逃げてばかりでは、前に進むことのない空虚な人生を送ることになってしまいます。
アドラー心理学にも通じる考え方
アドラー心理学関連の書籍「嫌われる勇気」の中でも、類似する内容(全ての悩みは対人関係、課題の分離、可能性の中に生きているうちは変わることなど出来ない、与えられたものをどう使うか)を書いているので、気になった方は是非そちらも参考にしてみて下さい。
人の才能は三種類(天才、秀才、凡人)
【秀才】:再現性(論理的な思考、数字やシステム、ルールを優先)
【凡人】:共感性(感情やその場の空気を読み、相手の反応を伺いながら動く)
本書では天才、秀才、凡人をそれぞれ「創造性」「再現性」「共感性」という軸で分類しています。
あなたはどの軸に分類されると思いますか?
お互いの相関関係
興味深いのが三者(天才・秀才・凡人)の相関関係です。
特に面白いのが、天才からの秀才と凡人に対する関係です。
天才は「秀才」に対して「興味がない」にも関わらず、「凡人」に対しては「理解してほしい」というプラスの感情を抱いています。
これは、天才と凡人の役割・人数が背景にあります。
天才は、革新を起こし世界を前進させる役割がありますが、そのためには凡人の協力が不可欠です。
例えば、何か目新しいものが社会に浸透するには、世界の大多数を占める凡人がそれを受け入れる必要があるからです。
一方で、凡人から天才に対するものは「理解できないから排除する」という極めて冷たいものです。何故なら、天才の突出したアイデアや言動等は往々にして凡人には異端に見えてしまうものです。ですから、自分の周りから出来るだけ排除したいという感情が働く訳です。
このように「天才と凡人」との間には相容れない「コミュニケーションの断絶」が存在します。これこそが天才を殺す原因とも言えます。
天才を凡人が殺すとは?
本書のタイトルにもなっている「天才を殺す凡人」。
その理由は本書に紹介されている図をみて頂くと分かりやすいと思います。
このように、天才がピラミッドの頂点に立つ時代から、秀才がトップに立つ時代へと変わると、天才は凡人の下に置かれ、天才と凡人とが入り混じる玉石混交の状態になります。
そして、凡人の管理下に天才が置かれることで、イノベーションを起こしたり、創造性を発揮することが出来なくなり、「天才を殺してしまう」という訳です。
だって、凡人にとって天才の創造性は理解出来ないから排斥の対象として映ってしまいますからね。
凡人には天才を殺す武器がある
凡人が天才を殺す武器とは「多数決」のことです。
天才は今までにないようなアイデアや商品を思い付くものですが、まず人間自体が「変化を苦手とする生き物」である為、革新的なものに対して否定的になりがちです。その上、企業内で多くを占めるのは天才ではなく「凡人」です。
凡人は天才の考えやその創造性が異質で異端なものに見える為、排除したいと考えます。
そうした中、公明正大に民主主義の原則に則り、「多数決」という武器を持ち出せば、数の暴力ともいうべき力によって天才の考えを駆逐することが出来るという訳です。
才能とビジネスプロセス、KPIとの関係
「天才の時代から秀才の時代に変わる」という話を紹介しましたが、その流れで本書では「才能とビジネスプロセス、KPIとの関係」を紹介しています。
上の図表をご覧頂けば分かる通り、ビジネスの流れ(創造→拡大→キャッシュ)によって必要となる才能の種類は異なるというものです。
いわゆる、創業期には天才・創造性が必要となりますが、フェーズが進むにつれ、秀才・再現性や凡人・共感性が必要になってくるという訳です。
創造期における価値は既存のKPIでは測れないという問題があります。
そもそも創造的なものは、今までのにないようなアイデアや商品・サービスですから、そんなものに基準や定義、枠組みに当てはめることは出来ないものです。
無理やり評価したとしても、適性な評価は行えないので、場合によってはせっかく生まれ出たものが消されてしまう可能性もあるという訳です。
経営は「アートとサイエンスとクラフト」
本書の中で「経営はアートとサイエンスとクラフトである」と紹介されています。
アートとは「芸術」、サイエンスとは「科学」、クラフトとは「モノづくり」と言う意味で用いられていますので、「経営には芸術と科学とモノづくりが必要」と読み替えることもできます。
特に経営においては「アート(芸術)」と「サイエンス(科学)」の違いを理解し、この二つを同じ土俵で戦わせることのないようにすることが重要です。
まず、アートとサイエンスの違いとは「説明能力の差」を指します。
芸術(例えば絵画)を言葉で説明するのは非常に難しいですが、科学は実験結果や数値、理論などを用いて説明することができます。
つまり、アートは説明能力が低く、サイエンスは説明能力が高いと言うことです。ですから、この二つの「どちらが良いか」といった比べ方をしてしまうと、100%の確率でサイエンスが勝つことになります。
経営に置き換えてみると、例えば「新しいものを作ったり、新しいことをやる」といった場合には、どうしても説明できない部分があります。
所謂、やってみないとどうなるか分からないといった部分です。
一方で、長年やっているような既存の安定したビジネスの場合は、外部環境の影響も多少あるとは言え、前年実績や取引先の状況、データ等からある程度予測を立てることが可能となります。
つまり、「新しいものを作ったり新しいことをやる」のは「アート」であり、「既存の安定したビジネス」は「サイエンス」に分類される訳です。
従って、経営会議などでこの「アート」と「サイエンス」をぶつけて同じ土俵で議論しまった場合は、サイエンスがほぼ100%勝つと言う結果になります。
本書の例を使えば、新規事業(創造性)と既存事業(再現性)の両方に同じ「EXITルール(事業撤退のルール)」を適応させてしまうと、異なるものに対して同じ尺度を用いることになるため、必ず問題が生じるということ。
ですから、経営であれば「その目的を達成するために、アートが果たすべき役割とサイエンスが果たすべき役割はどこかと言うことを区別して考えなければならない」と言うことです。
同時にこれは天才と秀才の関係ともいえます。
「才能と企業の成長フェーズの関係」の表にも現れていますが、天才の「創造性」を説明したり計測したりすることは容易に出来るものでもありません(アートに分類)。一方で秀才が得意とする「再現性」は説明能力が高いもの(サイエンスに分類)と言えます。
ですから、社内で天才の創造性と、秀才の再現性を比べる際には同じ土俵に立てないように注意が必要となります。
「みんながいいと信じる」共感は「力」を持つが「危うさ」もある
凡人は「多数決」によって天才を殺すと述べましたが、時として「数」とは物凄い力を持ちます。それは凡人の武器である「共感」に由来したものです。
「みんながいいと思っているから」
誰しも少なからずこうした気持ちで行動したことがあると思います。
しかし「みんながやってるから、みんながいいと思ってるから」と言われているものの半分くらいには理屈はなく、本書の言葉を借りれば「よくよく考えると、理屈はないけど、みんなが信じているもの」には極めて強いパワーが働いているということができます。
確かに「みんなが」という言葉には力がありますが、同時に危うさもあるものです。
例えば、会社の会議等で、根拠のある正論を語ったとしても、社員の多くが共感する別の案があればその流れに勝つのは至難の技です。
しかも、議案の良し悪しではなく、感情と言った曖昧で根拠のないもので決められてしまう可能性もあります。また、そうした根拠の薄いもので決められたものや構成されたものは、何かちょっとしたきっかけでクルッと覆されてしまう危うさを持ち得ています。
「みんなが信じていること」。
引用:「天才を殺す凡人」(p.71)より
それはそれだけで価値がある。
共感性の典型が「流行」
2019年前後に「タピオカブームが三度到来」しました。
(一次ブームは1992年、二次は2008年、三次が2019年(or2018年)と言われています)
街中の至る所で、タピオカドリンクを手にした人々を見かけましたが、当時を鑑みるに、「タピオカが大好きだから、美味しいから飲んでいた」という人はどの程度いたのでしょうか。
好きだからというよりも、むしろ「周りのみんなが飲んでいるから」「タピオカを手にした方がお洒落、カッコいい、映える(?)」といったように、どちらかと言えば他人の目を気にして、タピオカドリンクを飲む方が多かったのではないでしょうか。
これこそが凡人の武器でもある「共感の力」なのです。
そして恐ろしい事に「売れているけど、大したことのないもの、全然ダメなもの」も存在します。流行に乗ることは非常に簡単ですが、それに対して常識やルールとの乖離、自分なりの良し悪しや好き嫌いの判断は最低限行うべきでしょう。
いつの時代にも、主に大学生を対象にしたネズミ講(マルチ商法)や最近だと遊び感覚での大麻の蔓延などで多くの被害が起こっています。
確かに一時期「KY(空気が読めない)」という言葉が流行った通り、共感性はコミュニケーションを取る上で必要な要素だと思いますが、時には周りの空気を読まずに自分の良心・信念を貫くべき時もありますので「みんながやってるから」「みんながいいと言ってるから」という理由に逃げてしまわないようにしましょう。
共感性の落とし穴ともいうべき思わぬ被害に遭わないためにも、評判や周り、外見といった第三者的なものではなく、「自分で考える癖」を身につけておきたいものです。
異なる軸によるコミュニケーションの断絶を防ぐ「三人のアンバサダー」
天才、秀才、凡人は、それぞれ創造性、再現性、共感性という軸を持ちます。
この軸に優劣はありませんが、軸が異なるというのはそれぞれの評価対象が異なるということです。
例えば、天才は「創造性」を軸に評価し、凡人は「共感性」を軸に評価する訳ですから、お互いに合い入れないのは当然と言えます。
もし、世界にこの三者「天才・秀才・凡人」しかいないとすれば、このように軸の違いによるコミュニケーションの断絶が起こり世界は崩壊してしまいます。
しかし、実際に崩壊していないのは、三人のアンバサダーがそれぞれの緩衝材となり、崩壊を防いでいるからです。
本書では三人のアンバサダーは上図のような位置関係にあり、それぞれを以下のように定義しています。
【最強の実行者・秀才と凡人の橋渡し】:会社のエース、どこでも活躍する要領の良さがあるが、革新は生まない
【病める天才・天才と凡人の橋渡し】:凡人の気持ちも分かるため、一発屋のクリエーターというイメージだが、構造的に考えることが苦手
こうした三人のアンバサダーが潤滑剤の役割を果たすことで世界が崩壊するのを防いでいるのです。
(注:サイレントキラー、共感の神については後述)
秀才は必須だが、天才の敵(サイレントキラー)にもなる
三者の相関図で見たように、秀才は天才に対して「憧れと嫉妬」の両方を持っています。
と言うことは、「凄い、尊敬」(プラスの感情)と「邪魔、憎い」(マイナスの感情)という相反する感情を有していることになります。
従って、天才の右腕になるような秀才もいれば、天才を殺す「サイレントキラー」になる秀才も存在します。
サイレントキラーとは、サイエンスが持つ「高い説明能力」を悪用することで生まれます。何故なら、制度やシステム、ルールなどを使いながら、組織の「創造性」や「共感性」を殺す存在となりえるからです。
「共感の神」としての凡人
「天才を殺す凡人」というタイトルだけ読むと、「凡人」=「悪者」に考えてしまいがちですが、本書では凡人にもきちんとフォーカスを当てています。
それは、あまりに共感能力が高い凡人は「誰が天才かを見極められる」ため、「共感の神」として、理解されないがゆえに死を選ぶ天才を「サポートする」ことが出来るということです。
天才は創造性はあるが、再現性や共感性の能力は低いため、普通の人々を中々説得できません。だからこそ、天才が創造性を実現するためには、「共感の神」と呼ばれる「裏側でサポートする人物」が必要であり、その「共感の神」になる可能性があるのが「凡人」であるということです。
【世界が進化するメカニズムとは…】
引用:「天才を殺す凡人」(p.176)より(一部改)
天才は、(凡人から昇格した)共感の神に支えられ、創造性を発揮する。
そして、天才が生み出したものは、エリートスーパーマンと秀才によって「再現性」をもたらされ、最強の実行者を通うじて人々に「共感」されていく。
凡人の最強の武器は「自らの言葉」
凡人が最強の武器を手に入れるには、以下の二つが必要です。
・白状すること
大人になるにつれ、我々は「他人から借りた言葉」を身につけます。
それは、KPIやガバナンスと言ったビジネス用語であったり、SWOT分析といった小難しいフレームワークであったり、いわゆるなんかカッコつけた言葉です。
そうした他人言葉、便利な言葉をデトックスして、小学生でも使うような言葉を選びつつ、(凡人の)自らのありのままを白状すれば、人は動くと述べられています。
凡人は共感性を武器にする存在ですので、秀才のような強い根拠はないけれど自分の腹の底から出た熱くシンプルな言葉で、相手の感情を揺さぶり、他人を動かすことが出来るということだと思います。
上記関連記事の中でも、良い経営者は「相手(従業員)に伝わる言葉を選ぶことが大切」と述べていますが、まさしく本書で述べられている内容は、相手を動かすためには「自分の言葉」が大切だということを示唆してくれるものだと思います。
誰もが己の中に創造性、再現性、共感性を持つ
最後に。
人の才能というのは「0 or 100」ではありませんので、共感性が100で他(創造性、再現性)は0ということはなく、それぞれ少しずつは持っている場合がほとんです。
自分の中の「天才」が思いついたアイデアを、社会的な基準やロジックで「良いか悪いか」を判断するのが秀才。
引用:「天才を殺す凡人」(p.196)より
そして、最後に「恥ずかしい」とか「周りからどう思われるか」と感情で判断し、その結果やっぱりやめておこうと、凡人が出てきてしまう。
(己の中で、創造性→再現性→共感性というプロセスを経ている)
折角、自分の中の「天才」が発揮されても、様々な理由をつけて「凡人」に成り下がってしまいます。
このように自分の中の才能を活かせないのは、才能があるかないか、より前に「ストッパーとなる存在」を取り除くことの方が大事であると、著者は述べています。
そして、ストッパーを取り除くためには、自分の才能を信じ、それを活かすことが必要です。自分のカード(才能)で何度も挑戦することでその才能が磨かれ、過去最高の自分になり、本当の自分になるのです。
感想
自らを「凡人」と選べる方は自分を知り個性を生かしている人
「天才、秀才、凡人」という三つの選択肢の中から、自らを「凡人」だと選べた方は、自分を知り個性を生かして生きている人だと思います。
まず、「中央化傾向」や「松竹梅の法則」といった点から考えると、普通は3つの選択肢から真ん中、つまり中程度のもの(ここで言えば「秀才」)を選びたがります。
加えて、「自己評価は3割増し」なんて言葉があるくらい、人間は自分を出来るだけ高く見積もりたがる傾向がありますから、「凡人」を選ぶ数はさらに少なくなります。(というよりも、個人のプライド的にも「凡人」を選びたがらない)
だからこそ、「凡人」を選んだ方は、その時点で自らに配られたカード(才能)をきちんと理解し、そのカードを使って勝負している人間なのだと思います。
「平凡であることの勇気」(アドラー心理学)
ちなみに、アドラー心理学の中には、「平凡であることの勇気」という考え方があります。端的に言えば、他者より優れていたり、他者と比べる必要はなく、「今のありのままの自分を認めてあげれば良い」という考え方です。
本書でも述べてあるように、持ってもいないカード(才能)をいつまでも追い求めず、「自らに配られたカード(才能)を知り、それで勝負(生きていく)していきなさい」という考えと同じです。
「凡人」=「ダメ」でも「劣る」わけでもない!
「凡人を選べる人はすごい!」といったことを前の見出しで述べましたが、本書の中で特に大事なことは「凡人」=「ダメ」でも「劣る」わけでも無いということです。
「天才、秀才、凡人」それぞれに個性があり強みがあります。
(創造性という点では天才に敵わないかもしれませんが、共感性という点では凡人の方が優っているわけです。)
また、本書では人間一人ひとりの中に「天才、秀才、凡人の部分」が存在しその比率が異なっているだけであり(その比率の重さに応じて天才、秀才、凡人に分類)、そもそも「創造性、再現性、共感性という3つの軸に優劣はない」とも述べてあります。
ただ、人数で言えば凡人>>>>>>>天才となるので、「希少性」や「憧れ」といった感情も手伝って「(優) 天才>秀才>凡人 (劣)」というイメージを持たれやすいというだけです。
そして、この本の内容を前提として考えれば、この世界は3つの才能で成り立っていますから、「天才・秀才・凡人」それぞれの才能がそれぞれの場面で必要とされています。
ですから、まずは己の役割を果たし、そしてお互いの役割や相容れない部分を知ることで、今まで以上に住みやすい世の中になるのではないでしょうか。
書籍「高知能者のコミュニケーショントラブル- IQが20違うと会話が通じない-」に通ずる!?
皆さんの中には、別の人とはツーカーのレベルで話が通じるのに、「どうもあの人とは話が通じない」という経験がある方もいると思います。
こうしたコミュニケーションのトラブルは、知能の差から来るものだという話が「高知能者のコミュニケーショントラブル」という本で述べられています。
簡潔に言えば、話を伝えきれない自分(高知能者)が悪いのではなく、理解出来ない相手(低知能者)に問題があるというものです。
電子書籍ということもあり、ワンコイン(500円)程度で手に入るので、興味がある方は読んでみるのも良いかもしれません。これまでに経験していたコミュニケーショントラブルの解決の糸口になるかもしれません。