【書評・ブラック企業残業長時間労働】「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由の感想
書籍情報
【書籍情報】
著書:「死ぬくらいなら会社辞めれば」が出来ない理由(わけ)
著者:汐街 コナ (イラストレーター)
監修者:ゆうき ゆう (精神科医)
値段/発行所:1,200円(税抜き)/あさ出版
その他著書:「ずっとやめたかったこと、こうしてやめられました。」
こんな人におすすめの本
・残業を沢山していて身体に不調も感じているが、まだ大丈夫だと思っている方
・長時間労働が日常化している方
・普段通りのことができない方
(ある日、突然立てない、歩けない、起きられない等)
・(過労や鬱状態に陥ると、自分の身体や心の異常を異常と思えなくなるので)
とりあえず、働いている方は(健康だと思われるうちに)一度読んでおくべき
経験談だからこそ、同じ境遇の人に響く内容
まず、本書の特徴は、なんといっても著者本人(汐街 コナ氏)が、地下鉄のホームで飛び込み自殺一歩手前でなんとか思い留まったという経験をベースに書かれた書籍だということです(それだけ追い込まれるような職場環境で働いていたということ)。
ですから、ブラック企業で働いていたり、長時間労働が慢性化していたり、職場で過度なストレス(パワハラ、セクハラ等)に晒され続けていて、似たような境遇(過労状態や鬱状態、ストレス過多)にある人、或いは、本人に自覚がないだけで実は心も身体も限界が来ていた方が読むと、もしかして自分もそうだったのか?、あの時のあれは危険な兆候だったのか?と共感すると思います。
また、著者自身が、自殺一歩手前まで陥った状態から抜け出していますし、著者と似たような状態にあった方々のインタビューや会社を辞めた後の話が書かれたページもありますので、今の自らの境遇(過労状態や鬱状態に陥るような職場で働いていること)を変えることに対する不安の解消やその後の明るい未来を抱かせてくれる本でもあります。
「見出し:こんな人におすすめの本」の中でも書いていますが、「自分は大丈夫。自殺なんかしない」と思っている方でも、過労やうつ、ストレス等により正常な判断が出来なくなるのが、過労死自殺の怖いところだと思います。
今はそうした危険な兆候はないと思われる方であっても、今後の予防策として、或いはあなたの周りにいる危険な兆候を出している方に気付いて止めるためにも、一度読んでみることをお勧めします。
まとめ(要旨)
「死ぬくらいなら会社辞めれば」が出来ない理由
「死ぬくらいなら、(死ななくとも)病気になるくらいなら、その前に辞めれば良いのに…」
新聞や報道等で、過労死自殺や仕事によるストレス等で鬱病になったといった話を聞くと「なぜ、そうなる前にその会社から逃げ出さなかったのか?」と思う方も多いと思います。
逆に言えば、「なぜ死ぬくらいまで、病気になるくらいまで、頑張ってしまうのか」ということでもあります。
著者(汐街 コナ)は「飛び込み自殺をしそうになるまで、どうして頑張って働いてしまっていたのか」という問いに対して「まだ大丈夫だと思っていた」と答えています。
著者が自殺しそうになった時の様子を以下のように語っています。
人気のない地下鉄の駅で、ふと「今一歩踏み出せば明日は会社に行かなくて良い」「なんて素晴らしいアイデアなんだ」と思ったそうです。
(当時、残業は90〜100時間、毎晩、終電で帰るような生活だったそうです)
著者の場合は、ギリギリのところで「死んではダメだ」と思い留まることが出来た訳ですが、当然、その後、「自分は今、何をやろうとしていたんだ」とハッと我に返り転職活動を頑張ったそうです。
そもそも「死にたいなんて思ったことがなかった」「過労で死ぬ可能性なんて考えもしなかった」と語っている著者ですら、働きすぎて追い込まれると「危うく…」ということが起こり得る訳です。
確かに「死ぬくらいなら辞めれば…」と多くの人が思うはずです。
そして、その判断自体、非常に真っ当で反論の余地もないものなのですが、それ(死ぬくらいなら辞めれば)が出来なかった人は、その程度の判断力すらも失ってしまっていたことが(過労死自殺の)原因だと、著者は自身の体験も交え語っています。
(*「まだ、大丈夫だ」と自分では判断していたが、それは間違いで実は限界を超えていたということです。判断力を失っていたために、限界を超えていたことに気づけなかった)
【おまけ1】:心理学的に言えば「学習性無力感」
追い詰められて「死ぬくらいなら会社辞めれば」が出来ない理由を心理学的には「学習性無力感」と呼びます。
これは、長期間、人間や動物がストレスを受け続けると、その状況から逃げ出そうとする努力すら行わなくなるという現象です。
サーカスの像は小さい頃から杭に繋がれたロープ(鎖)で逃げられないように育てられます。
成長し大人になった像であれば、杭を引っこ抜いて逃げ出せるほどの力もあるのですが、小さい頃から繋がれ「逃げられない」という記憶が植え付けられているため、大人になっても「逃げる」という発想が出てこないというものです。
(像以外にも、犬の例などもあります)
つまり、人間の場合も、過度なストレスを受けると、逃げ出そうとする選択肢が見えなくなると言うことです(何をやっても無駄だと思ってしまう)。
本書に挙げられていたサーカスの象の話以外にも、伊藤忠商事株式会社の「ノミの天井」の話も有名です。
これは、ビーカーの中にノミ(蚤)を入れておくと、ほとんどのノミはビーカーの口から飛び出ていきます。
しかし、ガラス板で蓋をすると、ノミは何度もガラス板(天井)に当たり、出ること叶わず、ビーカーの底に落ちていきます。
しばらくこれを続けた後にガラス板を外すと、ノミは天井だったガラス板の高さ以上に飛ばなくなっており、ビーカーの外に飛び出ることが出来なくなる、という話です。
こちらのノミの話の方が、「ブラック企業で働いている社員が低賃金で過酷な労働を強いられ続けながらも、自ら進んで退職しない」という状況を上手く表しているように感じたので、こちらの話も紹介しておきます。
【学習性無力感について/Wikipediaより】
引用:Wikipedia「学習性無力感」より
長期に渡り、人が監禁されたり、暴力を振るわれたり、自分の尊厳や価値がふみにじられる(主として、いじめやモラルハラスメントに代表される人格否定)場面に置かれた場合、次のような徴候が現れるという。
(1)被験者は、その圧倒的に不愉快なストレスが加えられる状況から、自ら積極的に抜け出そうとする努力をしなくなる。
(2)実際のところ、すこしばかりの努力をすれば、その状況から抜け出すのに成功する可能性があったとしても、努力すれば成功するかもしれないという事すら考えられなくなる(言い換えると、長年受けた仕打ちによる反動で、どんな可能性さえも「無駄な努力」と断じ、自発的行動を全くしなくなる)。
(3)ストレスが加えられる状況、又ストレッサーに対して何も出来ない、何も功を奏しない、苦痛、ストレス、ストレッサーから逃れられないという状況の中で、情緒的に混乱をきたす。
自分のことより「他人を中心」に考えてしまう
「死ぬくらいなら辞めれば」が出来ない理由は「『判断力』を奪われてしまうから」だと述べました。
であれば、判断力が奪われる前に会社を辞めれば良いのですが、それが出来なかった理由を著者は「他人を中心に考えてしまったから」だと述べています。
上記関連記事の中でも「辞められない理由を他人(周り)のせいにしていないか?」ということを指摘していましたが、本書でもやはり同様のことが述べられていました。
・会社の同僚や取引先に迷惑をかける…
・上司に叱られる
・(途中で逃げることで)我慢出来ない(忍耐力がない)、仕事がデキない奴だと思われたくない
・世間体が悪い
このような他人や他人の評価のために、自分自身のことをなおざりにして良いはずはありません。
他人のことを気遣うことは日本人の美徳とも言えますし、生きる上で必要なことですが、自分の命と引き換えに気遣うことではありません。
自分の身体や心、人生を最優先にして下さい。
みんな(周り)、一般論・常識、自分がやらなきゃといったドグマに囚われるな
判断力を失うのは、何も他人を中心に考えてしまうことだけではありません。
「みんな」「一般論・常識」「自分がやらなきゃ(頑張らなきゃ)」といった、ドグマの中にも潜んでいます。
「みんなも…」やっているから大丈夫
「みんなも忙しい」
「みんなも遅くまで仕事をしている」
「みんな(上司・先輩)はもっと残業をしている」
「みんな」という言葉は一見公平さを装い良い言葉のように見えますが、「みんな」という言葉には思考を停止させてしまう怖さもあります。
「みんな」(長時間労働、サービス残業を)やっているんだから…
そういうもんだ。
問題ない。
普通。
おかしなことではない。
といった具合です。
そして、「みんな」という言葉で一括りにしてしまうと、人間の持つ個体差・特徴を無視することにも繋がります。
周りがあれだけ働いているんだから、自分も同じだけ働けるはずだ…、と。
メンタルヘルスの分野を勉強すると分かりますが、ストレス耐性というものには個人差があります。
例えばAさんとBさんがある職場でパワハラを受けたとします。
(同じような状況で同じことを言われたと仮定)
Aさんはパワハラを受けても、全然平気そうにしています。
一方、Bさんは心療内科を受診するほどの強いストレスを受けてしまって通院する事態となったといったこともあり得る訳です。
もし、家族や友人から「あなた、ちょっと働きすぎじゃない?」と言われた時に、「大丈夫。みんなそのくらいやってるから(働いているから)」「私たちの業界はこれぐらい当たり前だから」というようにみんなや周りを基準に答えていたら要注意かもしれません。
一般論や常識が邪魔をする
「石の上にも三年」という諺を聞いたことがあると思います。
特に新入社員として働き始め、徐々にミスや失敗など辛い経験を味わうようになると、自然とこの言葉を思い出すのではないでしょうか(特に真面目な方ほど)?
「石の上にも三年」とは、「冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくることから、がまん強く辛抱すれば必ず成功することのたとえ」として使われる諺です。
「プロフィール」にも書いていますが、私は最初に勤めた自動車ディーラーでは入社1ヶ月で辞めようと思うぐらいへなちょこでした。
その当時も、「まぁ、『石の上にも三年』っていうし、すぐに辞めるのはやっぱり良くないよなぁ」と考え退職を思い留まったこともあります。
(その後、それなりの結果が出せるほどには成長できたので、結局、一年ちょっとで辞めましたが…)
この諺は「三年ぐらい働いてみないと(会社のことも、仕事のことも)分からない」という意味でみなさんも使っていると思います。
年配や先輩方の中にも、新入社員から「実は会社を辞めようかなと思うのですが…」といった相談を受けた際に、「いいから、とりあえず三年やってみて、その後で考えてみたら?」といった具合に、無意識のうちに使っているのではないでしょうか。
しかし、なぜ3年なんでしょうか。
誰が決めたのかも分からない「3年」という数字(一般論・常識)に囚われていませんか。
仕事の種類にもよりますが、仕事には、一定のパターン(定型)があります。
その基本さえ出来るようになれば、あとはそのパターンの繰り返しか、やり方や効率の改善といった具合で対応できる仕事もあります。
そうしたものであれば、人によってはもっと短い期間で仕事の基本を覚えることが出来るかもしれません。
誰が決めたのかも分からない「三年」という言葉に振り回されて、貴重な時間を無闇に失うことは避けるべきでしょう。
著者は、「石の上にも三年」という諺を例に、他人の石ではなく、自分の石(意志)で決めたことであれば我慢できるのではないかと提言しています。
例えば、ある一定のスキルを覚えるまで、ある一定のお金を貯めるまで等といった具合です。もちろん、最初に決めたことを守り切る必要もなく、自分で決めたことなので、自分でそれを変えることも出来るはずです。
石の上にも三年以外にも、「我慢していればやがて報われるから」「辛抱してやり遂げることが大事だ」「自分が若い頃はもっと大変だった」「こういう時代働けるだけでありがたいと思いなさい」といった、いかにも正しいような一般論や常識がそこかしこに転がっています。
そうした声に耳を傾けることは確かに大切ですが、本当にそれを信じ込んで良いのか、他人の声ではなく自らの声を聞くことが大事だと思います。
また「人間には限界はない」なんてことを言ったりもしますが、少なくとも疲労やストレスには限界があります。
長時間労働(過労)や過度なストレスなどに対して、慣れや経験、或いは根性で一時的にはカバーできることもあるかもしれませんが、いずれにしろ長くは持ちません。定期的に疲労回復、リフレッシュを行い健康維持に努めなければ、判断力を失うことにもなりかねません。
「私がやらねば誰がやる」自分がやらなきゃという思い込み
ある程度の期間、働いていると「自分にしか出来ない、自分にしか分からない仕事」というものが出てきます。
(ex.特に、取引先ごとに担当制だったり、仕事のプロジェクトを受け持つ等があるとこうしたことが顕著になります)
そうなると、「私がやらねば誰がやる」という発想になって、休みを返上して仕事をしてしまい、結果身体を壊してしまうといった事態も起こり得ます。
逆に、著書の中では、「私がやらねば『誰か』やる」という言葉が紹介されています。
「『誰が』やる」ではなく「『誰か』やる」というのが面白い所です。
そもそも「自分にしか出来ない、自分にしか分からない仕事」というのはありません。会社という組織で働いているのであれば尚更です。
何故なら、「人に仕事をつけるのではなく、仕事に人をつけるのが正しいやり方」なのですから、誰々がいないから仕事が回らないという組織はその時点で会社として上手く機能していないか、或いは本人がそう(自分にしか出来ない)思い込んで悦に入っているだけのどちらかです。
投稿時点(2020年10月23日)では、安倍内閣から菅内閣に代わって約1ヶ月が経過しています。アメリカではトランプ氏とバイデン氏が次のアメリカ大統領選を戦っている最中です。
つまり、日本やアメリカのトップである内閣総理大臣や大統領であっても替わりはいる訳です。
一般の会社であれば、あなた以外にも先輩後輩、前任の方、上司、経営者といった替りとなる人が存在しています。
「仕事上の立場」「仕事上の役割」というのは本来そういうものなのです。
病気や怪我、体調不良といったものではなく、「気分が乗らない」「なんとなくやりたくない」など無責任に仕事を放棄するのはダメですが、「私がやらねば『誰か』やる」。
いざとなったら、誰かがやってくれるということを忘れないで下さい。
【おまけ2】心療内科やメンタルクリニックを受診するタイミング
本書の監修者であるゆうき ゆう氏(精神科医)曰く、心療内科(メンタルクリニック)を受診するタイミングは「困ったとき」だと述べています。特に日常生活に支障が出るのならなるべく早めに受診することが大切だそうです。
具体的な基準として以下の5つを挙げています。
・食欲がわかない
・仕事にいきたくない
・好きなことや趣味が楽しく思えない
・死について考えることが増えてきた
以上の5のうち、3つ以上が当てはまる場合や、1、2つであってもそれが1ヶ月以上も続いているようだと、心療内科への受診を考えた方が良いとのことです。
中にはどこの病院が良いかわからないという方もいらっしゃると思いますが、「どこでもいいから受診すること。そして、1日でも早く心を治してあげることが大切」と述べています。
ぜひ、参考になさって下さい。
感想
「〜だから」と最もらしい理由を付けて、頑張りすぎないこと。自分の心身を最優先にすべき
この本を読んで「なるほどなぁ」と感心した話の一つに「〜だから」という発想の危険性を謳った話があります。
例えば、
「自分の好きな仕事」だから。
「自分で選んだ仕事」だから。
「自分のやりたい仕事」だから。
…だから、頑張るのは「当たり前」
努力するのは「当たり前」
長時間働くのも「当たり前」
多少のことは我慢するのも「当たり前」
辛くても逃げないのも「当たり前」
体調が悪くても休まず働くのが「当たり前」
・・・
・・
・
特に「〜だから」という言葉の前に「好きな仕事、選んだ仕事、やりたい仕事」と言ったポジティブな言葉が付くと、最もらしく聞こえてしまうから不思議です。
その他にも、
「出来ない」のだから。
「成果が出ない」のだから。
・・・だから、もっと頑張らないと。
著者は「『成果が出ない(或いは出来ない)』と『頑張っていない』はイコールではない」と述べています。
つまり、成果が出ないのは、頑張っていないから (×)
出来ないのは、頑張っていないから (×)
というのは、間違いだという訳です。
もちろん、本人がやるべきことをやっていない場合もありますが、個人の資質(向き不向き)や発達障害(アスペルガー、注意欠如・多動症(ADHD))、組織的な問題、外的要因(市場環境の悪化)、或いは仕事のやり方、成果の出し方をきちんと教えてもらっていない、など様々な要因が考えられます。
こうした頑張りだけではどうしようもない部分も少なからず存在します。
この辺りをしっかりと見極めずに、「頑張ること」が目的となってしまって、長時間労働や過度なプレッシャーやストレスで、結果として心身に影響を及ぼす事態になっては意味がありません。
「〜だから」と理由を付けて頑張ることも時には必要ですが、だからといって身体を壊すまで頑張りすぎるのもいけません。自分の心身を最優先に考えることも大切です。
【アドラー心理学】「辞められない理由」に囚われない「変わる勇気」が必要
まとめ(要旨)に書いた以外にも、「会社を辞められない理由」は、幾つも存在します。
(会社を辞められない理由)例えば、
・転職するにしても、また就職活動をするのは面倒だ。
・また、不採用の通知が送られる度に傷つくのは嫌だ。
・今の会社は内定が出た会社の中ではマシな方だし。
・この業界だとどこに行っても(労働条件や給料は)似たようなものだし。
・採用面接を受けて、唯一受かった会社だし。他なんて…。
ここで挙げたような「会社を辞められない理由」は、一見もっともらしくも、いずれも今ままでの自分を正当化するようなものばかりです。
この背景には、アドラー心理学でいうところの「変わる勇気」が足りない訳です。
・今の会社を辞めてしまうと、その後どうなるか分からないという不安。
・転職活動への不安。
・別の会社に転職した際の新しい環境への不安。
・違う職種や業界へ転職した際の未知領域への不安。
など、こうした不安があるゆえに、(大変であっても)今いる慣れ親しんだ場所にいたいという想いが「会社を辞められない理由」を作り出しているとも言えます。
だからこそ、アドラ心理学でいうところの「変わる勇気」が必要となる訳です。
【補足】本書内でも監修者(ゆうき ゆう)のページの中で、アドラー心理学やそれに通ずる内容のことが語られています。
読書の良さが実感でき、出会えて良かった一冊。
元々、「仕事は人生そのもの。楽しくない、辛い、つまらない、嫌だと悩み考えながら働くの勿体無い」という投稿記事に関連付け出来そうだなと思って、手に取った本だったのですが、「投稿記事の内容」と「本に書いてある内容」がリンクしているだけでなく、関連付けのために「書いてあると良いなと思っていた内容」も書いてあったりして、ちょっとびっくりしました。
(ex.アドラー心理学(課題の分離)のことに触れてあったり、会社を辞めない理由が他人(周りの人)になっている等)
本を沢山読んでいると、ある本に書かれていた内容が、別の本の中で表現を変えて書かれていて、「やっぱりあの内容は本質を捉えていたのかな」と考え方に確信が持てたりすることがありますが、本書もそういう意味では様々な本の内容と関連付けられる部分があったので、自分としては出会えて良かった一冊。